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「課題」は背負わされてきたのではないか?

怒涛の1週間が過ぎそう。先週の土曜日に雪が積もった秋田から逃げるように東京に行った。東京では彼女に会ったり、高校時代の旧友たちにも久しぶりに会い、とても充実した日々を過ごせた。

東京から秋田に帰ってきてからは、大学時代に一緒に仕事をしていた方に東京からわざわざ秋田に来てもらい、秋田を案内した。新しいプロジェクトについてや自分の将来のことなど、貴重な時間をもらいながら、とても楽しく充実した時間を過ごすことができた。

僕は今、大学時代から続けている福祉を訪問介護と相談員という形で続けている。それが大体週4.5日で、他には特に何もせず8月から過ごしてきた。
ただ、そんな僕に先月「秋田で若者のコミュニティを作らない?」という話がきた。

昔ならすぐにでも飛びつきそうな話だけど、内容を見て、あまりしっくりこない。目的と手段の話はあらゆるところで永遠にされるけど、自分はどんな物事に対しても一旦目的を見る癖がある。言い換えれば「本質」みたいなものを探してしまう。

秋田のコミュニティをつくるというのは手段であり、その目的は何なのか?

そうやって目を向けてみると、腑に落ちないところがいくつもある。
そしてその疑問を自分に対してもう一度投げかける。
「自分が秋田でコミュニティをつくるとしたら、どうしてつくるのか?」

そんな問いに対して、色々な思考を巡らせたり、色々な角度で考えたりしながら日は流れ、気づいた時には「コミュニティはやってみたいんですが、やるなら根っこの部分から作り直さないとやる気になれません」と、言っていた。


そんなこんなでプロジェクトやイベント一つとっても「目的」やら「根っこ」やらを気にしまくってしまう自分は、やっぱり自分がどうして生きるのか?みたいなことを考えてしまう。

それはローカルについても、「自分がこの地域でどうして生きるのか?」と。

秋田に来てすぐ聞いた言葉は「社会課題を解決しよう!」「課題があるからこそ、チャンスがたくさんある!」そういった勢いのある言葉たち。

でもコミュニティのことや目的のことや秋田のことをふつふつと考えてきた時に思ったことは「なんで、俺たちが社会課題を解決しないといけないの?」という疑問。

秋田に生まれて物心がついた時から「人口減少日本一」「少子高齢化日本一」「がん死亡率、自殺率もワーストトップ」みたいな情報に晒されてきた。

自分たちは生まれた時からそこに”社会課題”と言われるものがあり、知らないうちにそれを背負わされている感覚がある。それを大人になったら「解決しよう!チャンスだよ!」みたいに言われても、いまいちしっくりこない。「え、なんで、僕がですか?」となってしまう。

でも大人は勢いよく「チャンスです!!今こそ秋田を!!!」みたいな感じで、大人の世代やそのもっと前の世代がコツコツ作ってきた「社会課題」を次世代に前向きにパスをするけど、僕らの世代はぽかーんっとしてる。

なんか秋田に来て一番最初に感じたことはそんなこと。

「目的」やら「手段」やらがごっちゃごちゃになっている気もする。
課題はもっと根っこにあるし、そこに目を向けないといけないと思う。

僕は大人に乗せられることもなく、誰かに媚びるつもりもなく、自分の目線から見える秋田について考えて、向き合っていきたい。

良いことばかりじゃないと思う。でも悪いことばかりだってない。

現状は面白くないかもしれないけど、それをどう”面白がるか”。
それがとっても大切な気がする。



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