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まちのコーディネーター いわさわさん|メンバーに聞いてみた

omusubi不動産の紹介をすると「いろいろなバックグラウンドの人が働いていて面白いですね」と言っていただくことがよくあります。きっかけはそれぞれ違うけれど、「omusubi不動産」という会社に集い、同じ方向を目指して日々精進しています。

omusubi不動産の一番の魅力は、一緒に働いているひとりひとり。どんな人が、どんなことをしているのか。どうやってomusubi不動産にたどりつき、一見、ちょっと変わった不動産屋で働いてみようと思ったのか。この連載では、omusubi不動産の日常の様子を覗きながら、なかで働くスタッフに話を聞いていきます。

プロフィール
舞台演出家 / theater apartment complex libido:代表 / omusubi不動産 まちのコーディネーター
千葉県松戸市出身・在住。せんぱく工舎1階F号室入居者。
学生時代に演劇にのめり込み、そのまま表現の道へ。20代の活動を通して、次の10年を地域の中から始めていきたいと思うようになり帰郷。同時に自身の演劇ユニットを集団化し、団体の拠点も松戸市に定める。現在は、演劇とまちづくりのお仕事を通して、広く”場”の演出に奮闘中。

陸上一筋だった中学時代から、演劇の世界へ


――いわさわさんは演劇の演出家としても活躍されていますが、やはり今日持ってきてくれた「自分を表すもの」は演劇に関するものでしょうか?

せんぱく工舎のアトリエで、自分を表すものを探してくれている様子

いわさわさん:そうですね、でも演劇の何がいいんだろうなと悩みました(笑)。そのなかで選んだのが、演劇をはじめるきっかけになった、最初の演劇の台本です。

――手元に残ってるんですね! これをやられたのは当時何歳だったんですか?

いわさわさん:高校3年生のときですね。これは、クラスでやった演劇の台本で。演劇と出会ったのもそのときでした。

――ふむふむ。ということは、それまでは部活とか別のことに興味があったんでしょうか。

いわさわさん:そうなんです、小・中学生までは運動部で。小学生の頃は水泳、空手、サッカー、中学に入ってからは陸上部で、砲丸投げをメインにやっていましたね。それで県の選抜に選ばれて県大会で入選したり、関東大会に出たり……。

――砲丸投げ! しかも実績もしっかり残していたんですね。そこからなぜ演劇に惹かれるようになったのか、気になります。

いわさわさん:陸上の推薦で進学できる高校もあったんですが、なんとなく陸上は中学までって決めていたんですよね。将来は造園の仕事をしたいと思っていたんです。父親が造園を仕事にしていた影響で、職人的な仕事に憧れていたので、物心ついた頃には迷いなく自分も造園の仕事をするんだ、と。ただ、高校ではたぶん遊びたかったんでしょうね。ずっと陸上一筋で、規律のあるところにいたから、自由な校風の高校に行きたいなと思い、そこへ進学しました。

――それが演劇に出会った高校のことですね。

いわさわさん:そうです。文化祭の中で、高校三年生は全クラス劇をやるんですよ。その同時期くらいに夏休みを全部文化祭の準備に使うくらいだったので、受験どころじゃなくて(笑)。いざ、どこの大学に行きたいか考えてみたとき、変わらず造園をやるんだと自分は思っていたんですけど、父親に、ふと「ほんとうに造園やりたいのか」って聞かれたんです。その一言が、やけに響いてしまって。

――「これをやるんだ」って自分の中で決めてしまうと、それがほんとうにやりたいことなのかどうかわからなくなることってありますよね。

いわさわさん:それで、改めて今自分が何をやりたいのか考えてみたら、今ちょうどやっている劇だ、と。やっていてすごくたのしかったし、もうちょっとちゃんと学びたいなと思い、日本大学の芸術学部演劇学科へ進学しました。でも、大学の進学当初は演劇を仕事にしようとはまだ思ってなかったですね。

――そうだったんですか。

いわさわさん:劇に興味を持った理由は、人と一緒に何かをつくったりするのが好きだったからなんですよね。日芸の演劇学科のなかでも、照明のような技術寄りの人は就職先も多いものの、創作寄りの人が学んだことをそのまま仕事にできる就職先は、ほとんどないんです。在籍中、そのことに気づいて、学生時代から仕事としてお金をもらえるよう、演出家の助手業として外の現場に出るようになりました。卒業後も演出助手としての仕事を続けながら、たまに自分の作品をつくったりしていましたね。

演劇の拠点として、地元の松戸に戻ってきた理由


――学生時代ですでに演劇の道へ進んでいたんですね。

いわさわさん:そうですね。ただ、卒業後も演劇にかかわる仕事はできているけれど、自身の成果は残せていなくて。このまま演出助手を続けているだけだと、自分的にはなんでもなくなっちゃうなと気づいたんです。また、親にも以前から「30歳が一区切りだ」と聞いていたんですよね。それまでは好き勝手生きていてもいいけれど、30までにはしっかりしなきゃな、と。それで、27歳のとき「最後に一回挑戦してみよう」とある決心をしました。

――ある決心、ですか。

いわさわさん:日本で最も有名な演出家の1人である鈴木忠志さんという方がいるんですが、鈴木さんが46年前に、富山県の利賀村に演劇村を作ったんです。それ以降、世界中から演劇人が集まるようになり、年に一度、演出家のためのコンクールを開催していたんですよね。いわゆる小説家でいう芥川賞みたいな立ち位置で、当時の演出家にとってはひとつの登竜門でした。そこに自分の作品を出してみようと思ったんです。そしたらうまいこと進んで、本戦までいけることになって。

――おお!

いわさわさん:これで結果が出せなかったら、演劇をやめようと思ってたんです。ところが、運がいいことに、二席 (優秀演出家賞)に入ったんですよね。周りの人と比べて助手業が長かったし、経験値も浅かったから、自分でもほんとうにびっくりしました。それで、これはやめられないなと(笑)。

――すごい!! やめなくてよかったです(笑)。

いわさわさん:はは(笑)。受賞したことによる影響力もすごかったです。そのコンクールがきっかけで翌年にBeSeTo(ベセト)演劇祭っていう日本と韓国と中国で共同開催している演劇祭に日本代表として行けるようになったり、2019年東京芸術祭で育成プログラムの枠にも選んでいただけたり……。あのときはまさに順風満帆で、とんとん拍子でいろんなことが進んでいっている感覚でした。

――演劇と言えば東京で活動されている方が多いイメージですが、岩澤さんは松戸を拠点にされていますよね。それは地元だからでしょうか?

いわさわさん:うーん、学生時代から地方との接点が多かったこともあり、なんとなく東京でバリバリやっていくっていうイメージを持てなかったんですよね。

――東京じゃないな、と。

いわさわさん:きっと、自分にとって東京は情報量が多すぎるんだと思います。競争率も激しいし、批評も多いし、意識しないといけないことがいっぱいある。その情報量の多さが、自分の創作環境に合っていないなと感じていました。ただ、拠点がほしいと思ったとき、最初はすぐに松戸が思い浮かんだわけではなかったんです。鳥取県の鳥の劇場が主催する若手育成プログラムに選んでもらった際の課題が、「あなたがどこかの芸術監督だとしたら、どこで、どんなことをしますか」というもので。そこで松戸を選んでみたら、「この町でできそうだな」というイメージにつながりました。

――育成プログラムの課題が、きっかけになったんですね。

いわさわさん:そうなんです。それから帰ってきて松戸でアトリエを探しているなかで、omusubi不動産を見つけました。最初は常盤平団地を検討していたんですが、そこですぐに劇をやるのは難しそうということで、新たに紹介してもらったのがいまのせんぱく工舎です。

コロナ禍で、順風満帆な生活から一転


――omusubiとの最初の接点は、入居者としてだったんですね。

いわさわさん:そうですね。当時は上の階の四畳半の部屋を、ぎゅうぎゅうになりながら5人で使って(笑)。2020年の3月くらいまでは、そんな感じでばりばり仕事してたんですが、コロナで生活が一変してしまいました。4月には予定していた公演や仕事はすべて中止。一年分の仕事が全部飛んで、やることが急になくなってしまいました。

――なんと……。それはつらいタイミングでしたね。

いわさわさん:そのとき殿塚さんに「あいつ暇らしいぞ」とバレて(笑)、田起こしに誘われたんです。さらに、下北沢のBONUS TRACKがちょうど開業したタイミングでもあったので、「手伝いにきてくれない?」と。最初はバイトでお手伝いしに行くようになりました。たぶんBONUS TRACKの手伝いに行っていたときだったかな、殿塚さんとせっきーさんが芸術祭の話をしていて「岩澤くん、科学と芸術の丘を一緒にやってみない?」と言われて。同時期にomusubiの運営業務にも誘ってもらい、今のようにomusubiの一員としてかかわるようになりました。

まちを「舞台」に見立て、演出するということ


――科学と芸術の丘で、まちの人を巻き込んだ企画に携わるようになったのはいつ頃からなんでしょうか。

いわさわさん:2021年くらいからですね。ただ演劇をやるっていうことに何の疑いも持っていなかったところから、コロナ禍を経て「続けていけない状況が起こりうるんだ」ということを体験し、演劇というものを使って、何か他にもやれることがあるんじゃないか、と思うようになりました。まちを媒介にして人とつながったりとか、これまで培ったものを作品以外に落とし込むことができるんじゃないか、と。そんなとき殿塚さんに言われたのが、「まちを舞台に演出してほしい」という一言でした。

――おお! 面白い視点ですね。

いわさわさん:僕も、これまでは劇場やカフェなどの限られた空間だけを「舞台」だと思っていた。だけど、まちを舞台に見立てることができるかもしれない視点に、可能性を感じたんです。新しい演劇のあり方や付き合い方が探れるんじゃないか、そう思ってomusubiにかかわることにしました。

――――科学と芸術の丘では、街の方が積極的にかかわってくださっていて、まちの企画が本企画を乗っ取る、みたいな見せ方がすごく面白いなと感じました。あの企画はどうのようにして生まれたんでしょう。

いわさわさん:今年はまちの人にも企画段階から入ってもらいたいなと思い、STAGの小川さん、TTAKKの芦田さん、teshigotoの古平さんと一緒に4、5回くらいオンラインで議論したなかで出たアイデアでした。そこからSTAGの小川さんが、「チラシを貼る」という行為にデザイン性を持たせるアイディアだったり、街をジャックしたりしたらいいんじゃないか、とコンセプトをまとめてくれて。今回、統括という立場ではありながら、それぞれジャンルの違うデザインのプロであり、日々街の中で活動をしている方々と一緒に“街”の見せ方を考えられたのは僕自身もすごく学ぶことが多かったです。

街企画のポスターは、当日までJR松戸駅一面に貼られていました|Photo by Hajime Kato

いわさわさん:早速JRさんへご相談にうかがったところ、駅前の壁一面にチラシを貼らせていただくことをご快諾いただきました。街をジャックする一つの形として、あれが実現できたことは自分のなかでも大きかったなと思います。ただ、実際にチラシを貼ることの大変さまで想像が及んでいなかったので、作業は大変でしたけどね(笑)。

演劇人がまちと接点を持ったとき、できることがもっとあるんじゃないか


――最後に、岩澤さんの今後の展望をぜひ聞かせてください。

いわさわさん:松戸で演出家として活動を続けていることで、ある面で危機感を感じている部分もあるんです。このまちって、やさしいんですよ。芝居を見にきてくれる人は満足して帰ってくださる方が多いんですが、まだ「芝居をやったこと」に対する評価が多く、中身に対しては少ない。もちろん松戸の人はそれでいいんです。それが住みやすさだったり、居やすさに繋がってる部分だとも思うし、そもそもどう評価していいかも分からないと思うので。ただ、創り手側としてはその環境に満足しちゃって、本当に面白いもの、唯一無二を創ることを怠ってしまうんじゃないか、と。それはお客さんにも失礼だなと思うし、ジリ貧だと思うんです。

――お芝居を初めて見た、という方もきっと少なくないですよね。

いわさわさん:そうですね。だから拠点は松戸のままで、県外や国外へ行き来することを意識したいなと思っています。多くの視点を自分の中に持っておくことで、どこに出しても恥ずかしくないものを創り続けていたいですね。

いわさわさん:もうひとつは、演劇人としてまちづくりに何を持ち込めるのか、その方法論の確立をしていくこと。演劇をやっている若手は、苦しい思いをしながら、都会・業界だけで活動を続けるしかない、と考えてしまってる人がまだ多いと思うんです。だから、「こういうやり方もあるよ」って、次の世代に生活と演劇、アートとまちづくりのバランスの取り方を示すことができるといいかなと。これは自分自身模索中なところなのですが、アーティストがまちづくりという文脈にいたときに、何ができるのかを同時に考えていかなければいけないなと思っています。

カタリストスタッフへの会場説明の様子|Photo by Riku Hirota

――omusubiのスタッフとして今後やってみたいことはありますか?

いわさわさん:omusubiのいちスタッフとしては、科学と芸術の丘の本祭以外にも、まちのなかにアートとの接点をつくることが、次の課題かな。自身の基本的な思考性はやはりアーティストだなと感じているので、それを生かすやり方を見つけながら、もう少し日常のなかでまちの人がアートに出くわすような企画をつくっていきたいですね。

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2023年も科学と芸術の丘は10/21(土)22(日)開催予定です。
どうぞお誘い合わせの上、お越しください。

科学と芸術の丘2022の公式ドキュメンタリー映像も公開しています。
ぜひご覧ください。


取材・撮影=ひらいめぐみ

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