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なけなしの命

最近の僕ときたら、本職の農業がすっかり多忙を極めており、日々を草刈りと動物の世話(変わったことに僕は「きじ」を養殖している。食肉用で、ある程度の日数飼育し、精肉場に卸す)に追われており、さっぱり、自己表現の活動をおざなりにしていたから、久々に文を認めようとしたところで、どのような言葉も、世界も、浮かんではこない。一応、映画や読書は好きだから、寝る前にネトフリで映画を見たり、読書はしたりするのだが、それらのメディアを自分の言葉とするプロセスを怠っていた。僕はここ最近で何一つとして語彙力を伸ばせていないことを、このエッセイを執筆している時に、初めて実感したということだ
僕が初めて活字と出会ったのは高校3年生の時。羽田空港の書店で買った恋愛小説だ。
僕はそれまで活字と言えるものを読んだことがなかった。父親からは再々「本を読め」と言われてきたけど、僕は「やれ」と言われたことをやるのが嫌いで、そんなくだらない天邪鬼から、本を敬遠し続けていた
そんな僕がなぜ本を読みたいとその時に思ったのか、詳しくは僕にもわからない。空の上で本を読んでみたい、そんなロマンチックな衝動に駆られたからとも思えるし、その本の題名が僕の気を引いたとも言えるし、僕が空港で2時間もすることがなくて暇だったから、とも言える。全ての出会いがそうであるように、もし僕の人生があらかじめレールの敷かれたものであったのならば、そこに「恋愛小説」という駅が存在していたに過ぎない・・・のだろう
あらゆるの出会いの理由を見つけることは難しい、なぜなら、僕が生まれて、どこかで育ち、ここでパソコンに向かい合っているのも、その理由の大半を「偶然」という、説明のつかないもので占められているからだ。

読書について、現在はトーマス・マン著『魔の山』を読んでいる。上巻・下巻に分かれているのだが、上巻ですら500ページを超える。長い
あまりにも長いので、一日10ページごと読み進めている。現在上巻481ページまでたどり着いた、逆算すると、僕はどうやらこの本を1ヶ月以上読んでいるらしい。この本が何を言いたいのかはまだわからない、とにかく中身が難しくて、とても今の僕では、『魔の山』から、現在の僕に落とし込める哲学やら言葉やらは、まだ見つかっていない。

おお、エンジニア!

僕は初めて本に出会ってから、ぼちぼちのペースで本を読んできた。最初の方は恋愛小説に明け暮れた。しかし恋愛小説が僕に教えてくれたことはなんだったろう。とにかく冴えない主人公が、華のようなヒロインと出会い、一悶着くらいあって、終盤でヒロインが死ぬ。というテンプレートを、世界観や登場人物で脚色しているようにしか感じられなくなってきた、僕はそれを感じた時、恋愛小説を卒業した。僕が得たものは、「ヒロインが死なない恋愛小説は素晴らしい」という自分なりのモノサシくらいだろう

ピリオドを打つように人が死ぬとき、その死に様がいかに美しかろうと、醜かろうと、僕と物語の間に大きな断絶を感じる。読者が「ああこれは物語なんだ」と思った時、今までに培われていた没入感は全て水泡に帰していく。空想からのあっけない離脱。
できれば没入感とは、本を閉じる瞬間、映画が終了して、スクリーンが明るくなるまで、どうか訪れてほしくないものだ。

さて、僕は「恋愛小説」を踏み台にここまで「物語」についての持論を述べてきたわけだが、これから僕は物語を書くわけではない。
物語は、読んでいる時には「自分にも書けそうだ」と思うのだが、いざ自分で書いてみようとなると、一向に筆が進まない、つまり、架空の世界や登場人物、人間関係を考えることができないのだ。
僕は高慢な人間のようで、自分に何ができて、何ができないのか、いまだによくわかっていないらしい。とりわけ、「できないことをできると思っている」ことほど、浅ましいことはない。

従って、僕はこれから、少し思い出話をしようと思う。そこに少し脚色なり、フィクションなりを加えれば、物語になるという寸法だ。
僕は想像力の豊かな、才能の溢れる人間ではない、才能のある人間とはこの場合「無から有を作り出す」ことである。僕には才能はないから、無から有を作り出すのではなく、有に色を添えて、皆様に切り売りしたいと思う。自分の過去を、思い出を、普遍的な言葉に置き換えて、皆様にお届けする。思い出はいくら吐き出しても減るものではない、しかし、思い出す時々によって、少しずつ形の変わるものだ。


僕が執筆を始めようと思ったのは大学2年生の時。高校時代の国語教師に偶然、新宿のバーで隣り合ったことだ。教師は僕に向かってこう言った
「文章を書ける人間というのは、人より多く自分自身と会話した人間だ。いいかい、誰かとではなく自分と。つまり、一人でいることが好き、あるいは、一人でいる時間の長い人は、その才能があると言えるね」
「僕には文章の才能はありますか」
「さあて、でもなんだろう。さっきまで一人でバーのカウンターに座っていたのだとしたら、その条件は満たしてるんじゃないかな」
教師は、オールドのボトルを注文し、僕にも一杯くれた
ウイスキーはまだそんなに多く飲んだことはないから、味の違いとかはよくわからないけれど、その時先生が奢ってくれた一杯は、いつも飲むウイスキーより美味しく感じられた。
しばらくして、教師に尋ねてみた
「先生は、どうして教師を志したのですか?」
少し遠い目をして、教師が答える
「昔から本が好きだったからかな、僕は学校が嫌いでね、小学校も、中学校も、高校も、運動が得意な人、苦手な人、勉強が得意な人、苦手な人、人と話すことが好きな人、嫌いな人、それら多くの個性を持った人たちが、◯年◯組という所属の元、同一視される。それがなんというか、気持ち悪いと思ったんだよね」
「そうですか」
「そんな時、僕を救ってくれたのは、昔から好きだった本だった。本は僕が教室の隅にいようが、自室のベッドにいようが、同じ世界に連れていってくれる。どんなに辛い時でも、苦しい時でも、僕の心を豊かにしてくれる。そう思った時、言葉って、文字って、とても素晴らしいものだと思ったし、僕と同じような境遇の子がいたのならば、それを教えたいなと思って、教師を目指したんだよ」
僕はミックスナッツを摘んで、指を舐めながら唸ってみせた
「なんというか、絵に描いた理由というか、とても素晴らしい志ですね」
教師は微笑んで正面を見てる、少し赤いのはお酒のせいだろう
「そうかな、ありがとう。でも僕は勉強はまあまあできたけど、運動は全然ダメだったし、何より人と話すのが苦手でね。そういう人ほど、他の人に対して妬みを持つものだと思うけど、僕も例にもれないというか、学生の時は、とにかく周囲の人間を僻んでいただけだと思うよ、こういうと、俺も所詮、小さい人間だろう?」
僕は首を横に振って
「そんなことはないと思います。自分のことをそのように話せることのできる人は、いい人だと思います」
教師は「参った!」というような面持ちではにかんでいた
「君はいいやつだな、君が在学中だったら、特別に評定をあげてもよかったよ」
「高校生はこんな店に入れないですよね」
二人で顔を見合わせて笑った、僕も少し顔に熱を感じる

しばらくして、僕は自分の疑問を口にしてみた
「先生、学問とはなんでしょうか」
僕は酔った勢いであまりにも漠然とした質問をしたつもりだったが、先生の返答は予想していたよりも早かった
「それは”真理の探究”だよ、文系にしても理系にしてもね。アカデミックというのは、いずれにしてもそうなんだと思うよ。ただアクセスの仕方が違うだけ、文系は、概念によって、理系は、極小の粒によって、この世界の構造を解析しようというものなんだ」
「真理を探究して、どうするんですかね?」
「さあ、それは真理の正体がわかってから考えればいいんじゃないかな?とにかく今は、真理とはどんな形で、どんな色で、どんな意味を持っているのか、それが肝心なんだよ、そもそも、真理なんて本当はどうでもいいのかもね、とにかく僕ら人間は、何かについて考えることができる限り、何かについて考えていたいのさ・・・なんて理由はどうかな?ロマンチックでいいんじゃない?」
「素敵ですね、ロマンチック。今日の先生の言葉の中で、今の言葉が一番輝いていました」
僕は覚えたてのタバコ(赤マル)に真っ赤なオイルライターで火をつけて、煙を吐き出した
「タバコか・・・こういう会話の中には、タバコの煙があってもいいのかもね、とにかく君は、何かについて書いてみるべきじゃないかな」
「そうですね、僕なりのロマンチックを、探求してみようと思います。」


新宿から中央線に乗って八王子のアパートに戻った時、僕は少し朦朧とする意識をシャワーで洗い落とした後、macbookを開いて、noteを登録した。それが僕の執筆活動の始まり。


赤マルについて話そうと思う。赤マルというのは赤いマルボロの略で、マルボロといえば大体こいつのことをいう。
僕がこいつと出会ったのは大学一年生、コンビニバイトの夜勤を始めた時だ。
夜勤の先輩に「佐々木先輩」という人がいて、歳は多分30前半くらいの女性で、真っ黒のつやつやした髪を首元あたりでぱっつんと切り揃えていた。
夏でも黒い革ジャケットを着て出勤してくる変わった人だった。それでも、佐々木先輩はスタイルがとても良かったし、そのジャケットは先輩にとても似合っていたと思う。ただ一つ気になったのは、時々、先輩はその身体が本体なのではなく、ジャケットが本体のように見えることがあった、そんな時、佐々木先輩の表情は決まって、陰鬱なものだった。

僕の勤めていたコンビニは夜遅くまでちらほらお客さんがいたが、時折、夜中の3時ごろ、お客さんがいなくなる時があった。
佐々木先輩は2時までの勤務だったので、大抵3時ごろにはいなくなっているのだが、その日はバックヤードの小さな机にノートを広げていて、スマホを見ながら何かしらのメモを取っていた。

僕も2時半ごろにレジの精算を終えて、バックヤードで売れ残ったフライドチキンを齧り、雪印ミルクコーヒーを飲みながら、ぼんやりと監視カメラを眺めていた

佐々木先輩はあまり積極的に話す人ではなかったけれど、全く話さない人というわけでもなかったので、言葉少なに、八王子出身の芸人の話や、僕の学生生活が極めてありきたりであることなどを話していた
たまにくるお客さんの対応などをしていたら、時計は3時12分を示していた。バックヤードに戻ると、先輩はノートを閉じて、スマホを眺めていた、作業がひと段落したように見える
また僕は監視カメラの前に座って、フライドチキンを齧ろうとしたら
「ねえ、君、タバコ吸いに行かない?」と、先輩の声がした
「僕は吸わないですよ」
「いいから、少しだけ外に出ようよ」
先輩に誘われる形で、僕は先輩と一緒に外に出た
3月のことで、3時の夜は肌寒かった
先輩はジャケットのポケットからタバコを取り出して、シルバーのオイルライターで火をつけて、それを吸っていた。先輩が持っているタバコの箱を見ると、赤マルだった。
タバコを吸って、口から煙を吐く先輩。今まで見たことのなかった先輩のタバコを吸う姿。その横顔は、いつもの先輩の気の強さのようなものが消え、何か先輩をそうさせている強迫観念のようなものが、取り払われているように見えた。

そんな先輩の姿に目を奪われていたが、ふと我に帰り、僕は口を開いた
「タバコって、美味しいんですか」
「さあ、どうなんだろ」
「わからないんですか」
「私は美味しいと思うけど、これが世間的にいう”美味しい”と、必ずしも合致しないんじゃないかってね」
「なるほど」
「あなたは吸わないの?」
「吸いません」
「どうして?」
「なんとなくです」
「そう」

・・・

今晩は満月のようで、夜空がとても明るく感じられた
しばらくして、先輩が話し始めた
「タバコのいいところはね、上を向けられること。私はどうしても普段の生活の中で、下を見て歩いてしまう。でも煙を吐き出すときはね、体が勝手に上を向くの。ねえ知ってる?上を向くことって、心にとっていいことなんだよ」
「そうなんですね」
「君は何か、将来のこととか、考えてる?」
「いえ、あまり」
「そう。そういうもんよね、まだ大学一年だもんね」
「先輩は考えてます?」
「何を?」
「将来のこと」
先輩は笑っていた、僕のボケが通じたようで何よりだ

「さあ、よくわかんない」
「先輩でもそうなんですね」
「そうだね、自分でもわからないようなことを人に聞くのは、失礼だったね」
先輩のほぐれていく表情に、僕はどんどん引き込まれそうだった

「私は、今を楽しく、ただ楽しく生きていたいの」
「同感です。僕は悔いのない人生を送るために、この春休みを、バイトと、ゲームと、読書と、映画につぎ込んでるんです」
「いいね、そういうのって、絶対楽しい」

先輩は、タバコの吸い殻を灰皿にすて、夜空を眺めながら、呟くように言った。
「私は何も考えないまま、ここまで歩いてきた、だからここにいる。でもそれが正解なのか、間違いなのか、それはまだわからないの、誰にもわからない。全ては結果が教えてくれる。私がこの人生のレールを走り切ったとき、何が正解で、何が間違いだったか、わかる気がするの」
「僕には、間違いとか、正解とか、それすらよくわかりません。自分にとっての間違いが、誰かにとっての正解だってこともあるし、逆もある。あらゆる出来事は、見方を変えるだけで、全然別のものに見えてしまう。この世界の人口が100人だったとして、僕一人が正しいと思ったことでも、僕以外の99人が間違っているといえば、それを正しいとするのは難しいけれど、僕以外の99人が正しいと言ったことでも、僕が間違っていると思えば、それは間違ったことのように思えるんです」

先輩が、目をこちらに向けていった
「あなたは、色々なことを考えているのね」
「どうなんでしょう」
僕は目を合わせていたけど、少し恥ずかしくなるのを感じて、夜空に顔を上げた。

先輩は、2本目のタバコに火をつけながら言った
「著名な作家が言ってたわ、禁煙をするにはね」
「はい」
「仕事を辞めることだって」
「仕事を辞めたら生きていけませんよ」
「ありったけの貯金がないとね」
「先輩はあるんですか?」
「あるわよ・・・一応」
「でも辞める気はないんですね」
「当分はね」

先輩が煙を吐き出して、夜空を見上げる、煙は夜闇に紛れて立ち上り、広がり、朧げになり、どこかへ消えてしまった。
「ねえ、どうしても吸わないの?」
「僕は未成年ですから」
「そう・・・じゃあこっちに来て」
先輩がそばに寄ってというように手招きするので、僕は先輩に近づく、先輩の服からは、ほのかにラベンダーの香りがした。
先輩の左隣に肩を並べる、先輩は僕より少し背が低いが、なんというか、身にまとっているオーラが、明らかに先輩が大人であることを物語っていた。

先輩の肩が少し震えていた、と思うと、右手を僕の後頭部に回して、僕の顔を自分の顔に寄せた、咄嗟のことで驚いたけど、肩を震わせていた先輩の意図を理解した。あと2センチのところで唇が触れ合うところで、先輩は僕にこう囁いた
「これから先のことは、君に任せるよ」
僕は先輩の顔を見つめる。先輩の目は細くなり、いつもより潤んでいるように感じられた、コンビニの光に映し出された先輩の輪郭は、いつもより不鮮明だったけれど、まつ毛の長さは、いつもより鮮明に感じられた。

僕はゆっくりと、先輩の唇に唇を重ねた。先輩の唇は薄かったけれど、ふんだんに潤っていて、僕は言いようのない高揚感に襲われた、また、触れ合う唇から、少しの苦みを感じ取った。

ほんの何秒の間、じっとそのまま、僕は現状を理解する自分と、どこかうわついた非日常の狭間のような中空を、ただぷかぷかと浮かぶヨットにナゥったような気分だった。

唇を離して、少し見つめ合い、僕らは結んだ手を、体を、丁寧に引き剥がすようにほぐれていった

「じゃあね、人生、楽しんでね」
そのまま先輩は、手を振りながら歩いて帰っていった
「また」
僕も少しだけ右手を上げてそれに応じると、コンビニへと戻っていった
先輩はその後も働いていたし、僕とシフトが重なることもあった、そのときは相変わらず取り留めない話をしたし、それ以上の話も、それ以下の話をすることもなかった

僕が大学2年になり、定期考査のためにしばらくバイトを休んでいた、定期考査が終わり、バイトに戻ると、シフト表から「佐々木」の名前はなくなり、今までやめていった人たちの名札入れのところにその名前はあった。そのように、僕らの別れは、僕からすれば唐突だった。彼女からすれば計画済みだった。

僕は20歳になった時、モンブラン、レモン酎ハイ、ライター、赤マルをコンビニで買って、自室でささやかなお祝いをした。初めてアパートのベランダで吸った赤マルの味は、今はよく思い出せない。初めての一吸いは吸い込みすぎて、とてもむせそうになったけれど、咳き込むのはダサく見えるから、必死に咳を堪えた。とても苦い煙が、肺と、口を満たした。このタバコのフレーバーのどこかに、あの時の口付けの味があるような気がするし、ないような気がする。

・・・

僕は大学時代は八王子のアパートに住んでいたのだけれど、僕の部屋には僕以外も住んでいた
それが黒猫の「よる」である
大学のゼミの友達の彼女の友達が保護猫の活動をしており、黒猫の子猫を2匹引き取った。その黒猫の里親を探しており、僕に白羽の矢が立った
僕の家はそんなに広くないし、そもそもペットは禁止だった。最初は断るつもりだったけど、写真を見せてもらったらとても可愛らしかった。流石に2匹は僕にとっても大変なので、どちらか一匹にさせてくれと相談し、大家にも写真を見せてなんとか説得した。僕の住んでるアパートの大家はおばちゃんで、元々優しい性格の人だったので、説得はそう時間はかからなかった、基本的に外に出さないこと、しつけをしっかりすること、避妊、去勢をすることを条件に許してもらえた。
子猫の2匹は双子の兄妹だったらしく、僕はメスの方を引き取り「よる」と名付けた。僕自身、どちらかといえば昼より夜の方が好きだったし、何より、夜闇のように真っ黒な子猫だったからだ。
よるは現在も、寝そべってうつ伏せで執筆している僕の背中の上に乗っかって優雅に寝ている。かれこれ5年くらいの付き合いになるから、もうとっくのとうに大人だ。
よるは引き取った当初から賢さを感じさせる子で、すぐにトイレを覚え、よるという名前に反して夜鳴きはほとんどしなかった。子猫の時ははしゃぎ回っていたけれど、少し大人になってくると落ち着きを見せ、お腹が空いた時以外はあまり僕に擦り寄ってくることも無くなった。
よるについて、書くことはあまりない。大病を患うでもなく、僕のように大怪我をするようなこともない。ただ健やかに生きているよるを見ていると、時がいつの間にか流れているような気配を感じるだけだ。昔の人が月の満ち欠けで暦を定めるように、僕はよると共に生活することで、流れている時間を視覚として感知しているような、不思議な気分になる。

そうそう、一つだけよるに関するエピソードがある。夜がうちに来て一週間経つか経たないかの時、震度5弱の地震がアパートを襲った。僕はベッドの上で読書をしている最中で、よるはケージの中でうたた寝をしていた。僕はびっくりして、スマホからけたたましく鳴る地震速報を止めるのでやっとだった。揺れが大きいので、ベッドの上でじっとしていることしかできなかった、よるも流石に目が覚めたらしく、ケージの中からニャーニャー鳴いているのが聞こえた。ただ、その声色は、恐怖というより、眠りを妨げられたことに対する不快感や、「なんかめっちゃ揺れてます」的なニュアンスが強く、あんまり地震を怖がるというより、地震そのものを理解していない感じが汲み取れた。しばらくして揺れがおさまってから、よるのケージに様子を見にいってみると、よるも寝床から出てきて、僕を見たからかゴロゴロ唸り、普通に餌を食べ始めた。そんなよるの姿を見た時、よるの肝の太さというか、無知ゆえの強さ、逞しさのようなものを感じた。とにかくよるにとって、この大きな地震がトラウマにならなくてよかった


僕は何か伝えたい思いがあるわけではない、何か特別なものを持って生まれたわけではない、ただどこにでもいる、普通の人間であるということ、ただ、普通の人間は皆、耐え難い過去と栄光の思い出、そのどちらをも内包しているはずであるという普遍的な事実。それこそが何よりも愛しいものであり、尊いものである、あって欲しいと思って、僕はこのエッセイを書くに至った。ただどこにでも起こりうる当たり前の出来事を、いかに美しく、美味しそうに見せるか、ここに作家としてのテクニックが問われるわけだ。僕としては初の長文で、肩にいささかの疲れを感じるが、とりあえずはここまで書くことができてよかった。ローマは一日にして成らず。1日にして成るローマは3時間で崩壊を迎えるだろう。
全く最後の余談として、僕は大学時代、メソポタミア文明の勉強をしていた。そう、あの4大文明の一つ、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた、粘土とナツメヤシ以外何もない過酷な土地。そんな土地で生きることを決意した人間は何を作ったのか。都市を作り、社会制度を作り、文字を作ったのである。人類最初の文字とされる「楔形文字」を作り出したのはメソポタミア文明である。過酷な土地で人が繁栄するには、ルールによる職業の管理、文字による交易が欠かせなかったのだ。過酷な環境だからこそ、人類は進歩を遂げたのだ。僕がメソポタミア文明の研究をするに至ったのは全くの偶然で、やりたいこともなくただフラフラと大学に入学した親不孝である僕は、偶然大学の掲示板で「世界遺産ゼミ」なるポスターを見かけ、興味本位でそのゼミに入ることにする。全く博物館学などやったことはなかったが、古代の人の歴史、とりわけ、「人類最古の文明」というロマンに奇しくも関われたことは、全く幸運な出会いだった。僕が人の「言葉」や「文字」に対して興味を抱くようになったのは、生まれついてのものもあるだろうが、大学時代の経験も大いにあると思う。僕にとって大学時代とは怠惰でありながら、それなりに楽しい思い出だったので、今回のエッセイは大学時代を中心に執筆した。
とりあえず眠いので寝る。おやすみ。


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