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湾岸危機からの帰国

 1990年の夏、バンコク(タイ)でヨルダン航空のサナー(イエメン)行き往復航空券を買って、中東を旅しました。アンマン(ヨルダン)乗り換えになりますが、せっかくだからストップオーバー(途中下車)することにして。
 往路(バンコク → アンマン → サナー)はすぐに予約が入ったので、その日の便で出発。復路は「通信事情が悪くて、バンコクでは予約が入らない。サナーで予約しろ」と言われて、未確定のまま。

 90年といえば、中東で大きな事件がありましたね。そうです、イラクがクウェートに侵攻したんです。
 戦争になったのは翌年91年で、90年夏はイラクとアメリカがにらみ合っていた頃です。とはいえ、街中はいたって平和。アジア人のボクは、現地の人に反感を買うこともありません。ですから、ボクの旅行にはそれほど影響はありませんでした。ただ1つのことを除いては。
 それは何かというと・・・復路「アンマン → バンコク」間がまったく取れなくなってしまったのです。
 ヨルダン・イスラエル(パレスチナ)・イエメンを予定通り旅しながら、時々ヨルダン航空のオフィスで確認する。けれども一向に予約が入りません。ボクもサラリーマンのはしくれですから、2学期に間に合わないと困ります。
 ヨルダン航空の「アンマン → バンコク」間のフライトは、週に2便。ボクは予定より1便前のフライトに合わせて、アンマン空港に行きました。予約は入っていませんが、チケットは持っていますから、空きがあれば乗れるはずです。それを期待して。
 空港はごった返していました。旅行中、湾岸危機を実感した唯一の場所がここです。乗客の多くは、湾岸危機のため一時的に帰国しようという出稼ぎ労働者です。
 当時4才の息子といっしょでした。搭乗手続きを待つ長い行列を遠目に見ながら、ボクらは待っていました。その行列が全部さばけて、その時点で空きがあれば、乗れる可能性があるわけです。
 とはいえ、混雑ぶりを見る限り、チャンスはなさそう。困ったなぁ 。。。次のフライトに乗れる保証もないし。
 そう思いながら、様子を見ていると、結果はオーバーブッキング。予約が入っているにもかかわらず飛行機に乗れない人が何人も出てしまいました。カウンターで抗議する客がいて、対応する航空会社の人がいる。そんな状況ですから、予約の入っていないボクのチャンスははかなくも消えたことになります。
 そこでボクがとった行動は・・・抗議する人の輪に加わったのでした。

 こうなったら子供連れであることをアピールするしかありません。息子を抱き上げて、「どうしてくれるんだ! 困るじゃないか!」と。でも飛行機はもう満席です。
 そうこうするうちに「翌朝にシンガポール行きの便があるから、それに乗れ」と、そんな話になりました。その夜のホテルと「シンガポール → バンコク」のフライトも付けてくれるという話です。ここまで来たら、もう引き下がれません。引き下がったら、いつ日本に帰れるかわかりませんし。
 オーバーブッキングにあった人は、10人以上いたでしょうか。そのほとんどは、バングラディッシュ・タイ・フィリピンなどから湾岸諸国に出稼ぎに来ていた労働者でした。彼らと一緒に指定された高級ホテルに向かい、一緒に食事して、おしゃべりして。
 ボクとしては「バレたら、ホテル代くらいは払うしかないな。でも、いくらするんだろ?」なぁんて考えながら。だってボクは飛行機の予約、最初から入っていなかったんですから。
 翌朝、空港のカウンターでは座席の争奪戦。ボクは再び子供連れであることを訴えて、なんとか座席を確保。前の晩に一緒におしゃべりをしていた人の中には、再び乗れなかった人もいました。
 飛行機はさらに数時間遅れて出発し、シンガポール経由で何とかバンコクに帰り着きました。そうして2学期の授業にも間に合って、めでたしめでたし・・・というお話でした。
 ところで先ほども書きましたが、帰国便の確保を除けば、旅行する上で他には何の支障もありませんでしたよ。

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〜 イスラエル伝説の正体 〜
イスラエル伝説の正体   
湾岸危機からの帰国    
パレスチナ支配が終わるとき

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