「ベルセルク」に学ぶ、屍の上に立てない僕が"お前もう船降りろ"と言われたあの日。
年末は自然と明るい気持ちになる。
年度末と違って仕事に追われることは少ないし、クリスマスや正月など明るめなイベントも多い。この時期は心置きなくガッツリ休みたいので、部下の有給休暇取得をそれとなく促すことが毎年の恒例行事となっている。年末年始なんか休んだらええねん、の精神である。
そんな中、個人的にはとても悲しい知らせが届いた。同じ部署の優秀な、本当に優秀な子が退職するという知らせであった。
彼と一緒に仕事をしたことは数えるほどしかないが、先を読んで動ける能力と高い専門性に、若いのにスゴイやつがいるもんだなぁと感心したことを覚えている。
そんな彼が退職した。明るい理由ではないそうだ。
今年は特に同僚が退職する話を聞くこと多かった。そして、その大半は明るい理由ではない。
優秀な人のもとには色んな仕事が降りてくる。はたから見れば無茶ぶりが過ぎる仕事に、気持ちが押しつぶされそうになることは容易に想像できる。個人の能力に頼りすぎる会社も、充分なフォローが出来なかった上司や同僚も、みんな悪いのだ。もちろん私も含めて。
『紅の豚』で主人公ポルコ・ロッソは「いい奴は死んだ奴らさ」と言っていた。これは場面を会社に変えても同じことがいえる。心根がいい奴はみな辞めた奴らだ。
残る奴は、底意地が悪いか、無能か、狂人かのいずれかである。
ダチョウ倶楽部案件
社会人になって10年以上経つ。思い返せば、私もツラい時が多々あった。
これまでも、担当するプロジェクトが思いもよらない良い結末を迎えたり、そうかと思えば訳の分からない仕事が降りてきたりと、幸運なんだか災難なんだか、よくわからないままキャリアを重ねている。
そんな中でもトップクラスに頭を悩ませた出来事を今回は紹介していきたい。
ちなみに以下の話は、例によってフィクションである。安心して欲しい。
あれは5年ほど前の出来事だっただろうか。
経営層から担当するいくつかのプロジェクトの予算をもぎ取ってきた私は、すっかり気を抜いていた。
遅れているマイルストーンもないし、胃が痛い会議も暫くない。有給休暇を取って、漫画喫茶にでも行くか〜と気楽な私のもとに、ピコンとLINEの知らせが届いた。懇意にしている社員からだ。
「ちょっと時間ありますか?」「オフレコで話したいことが」
めっちゃ怖い。
良い知らせではないことがビンビンに伝わってくる文面だ。もしあなたが相手の危機感を煽りたい時は、1通でよいところを敢えて2通に分けて連絡することをオススメする。少なくとも私はゲンナリした。
時間を作って話を聞くと、部下から私に対する不満の声が上がっているとのことであった。
内容は「今の体制では思うように働くことが出来ない」「現プロジェクトリーダー(私)には降りてもらいたい」「代わりに私がやる」といった趣旨であった。
私の人生の中で、この時ほど心の中のダチョウ倶楽部がグイグイきたことはない。
部下がここまで不満を持っていること自体は初耳ではあったが、思い当たる節が無かったと言われれば嘘になる。そう、思い当たる節はあった。
当時の私は複数のプロジェクトを抱えており、うち1つは部署的に優先順位がとても高く、終始そのプロジェクトに付きっきりになっていた。不満の声をあげた部下は、他のプロジェクトを担当していたので、不公平を感じていたのだろう。
そしてもうひとつ。
私はその部下に、ほとんど明確な指示を行ってこなかった。大枠のマイルストーンのすり合わせと必須なサポート以外、ほとんど任せっきりだったと言ってしまっても過言ではない。
要は、あまり手を掛けてこなかったのだ。
ここだけ切り取れば、恨まれてしまってもしょうがない!お前が悪い!という声が読者から聞こえてきても仕方がないように思える。
……いや、実際私もそう思っている。あれ?これ私が完全に悪くない?
知らぬ間に「イマジナリーウソップ」になっていた
こうなってしまった背景を振り返りたい。
思い返せば、私は初めから放任をしていたわけではなかった。
以前の私は該当の部下に対し、ともすればマイクロマネジメントとも思われるような仕事の管理をしていた。
開発品のデータ収集について、詳細な計画案を与え、その進捗を細かく報告してもらい、そして改善計画を策定するという、考えなければならない仕事の部分には、ほとんど介入していた。
なるべくプロジェクトがうまく進むように、そして部下に負担を掛けすぎないようにといった配慮から表出した行動であったが、相手からすれば、仕事の内容は物足りず、そして何よりウザかっただろう。この時も不満の声は爆発した。
「思うようにやれない」「信用されていない」「私の成果が全て取られている」。当時の内容もこんな感じだったと記憶している。
私は大いに反省し、上司に育成方針の相談をした。その結果、今後は部下への詳細な仕事の指示をやめ、大枠のマイルストーンの中で、本人の自主性に任せてみようという方針転換を行うことになった。
「不安だと思うけど、信じて任せてみなよ。」
上司は私にそんなことを言った。
私は「こいつ、プペルみたいなこと言うんだなぁ」と心の中で思いながら笑顔で首を縦に振った。(ちなみに5年前にプペルはない)
良い言い方をすれば"自主性に任せた"、悪い言い方をすれば"放任気味な"仕事の振り分けが始まった。その結果が、上記の不満爆発事件につながったというわけだ。
兎にも角にも、私は完全に手詰まりな状況に陥った。細かく方針を示してみればウザい、自主性に任せてみれば思うように働けない。まるで思春期の娘から距離を取られてしまった父親の様な立場である。会社なのに。
こうして私は「プロジェクトリーダーを降りろ」と言われてしまった。
『ONE PIECE』のルフィが、「お前もう船降りろ」と非情な台詞をウソップに言い放つ画像が一時期バズった。
元ネタは5ch掲示板に立ったスレッドであり、作中のウソップはこのような辛辣な台詞を言われていない。しかし、上記画像があまりにも有名だったので、『ONE PIECE』を真面目に履修していない私は元ネタを知って、「よかった……更迭を宣言されたウソップは存在しないんだ。可哀想な目にあったのはイマジナリーウソップなんだ……」とすっかり安心していた。
しかし、プロジェクトという船からの戦力外通告をされた私は、紛れもなくイマジナリーウソップであった。
この世に存在しないはずの人物に、いつの間にか私がなっていたという。『ベルセルク』のような、幽界と現世が混在した幻造世界が現実にも出現したのかもしれない。
足元には屍がいっぱい
『ベルセルク』は日本を代表するダークファンタジー漫画だ。その重厚な世界観と圧倒的な書き込みに魅了されるファンは多い。もちろん私もファンの一人である。
あまりに壮大な物語であるため、作者である三浦建太郎先生も「死ぬまでに頭の中を全て出せるのか」と語っていたという。その三浦先生は2021年5月に急逝された。ニュースを見た時は信じられずかなりショックを受けた。同年12月に41巻が発売されたが、この先どうなるかは誰も知らない。
今はただ静かにご冥福をお祈りしたいと思う。
『ベルセルク』といえば、とても印象的なシーンがある。それは、主人公のライバルであるグリフィスが、人知を超えた存在であるゴッドハンドと対峙した際に見せられた、幻覚の中での出来事である。
グリフィスは幼い頃から自分が世に生を受けた意味と意義を問い続けており、やがて「自分の国を持つ」という壮大な夢を持つに至っていた。その壮大過ぎる夢を叶えるために傭兵団を結成し、次第に権力を手にしていくのだが、ある出来事をきっかけ再起不能になってしまう。
彼は幻覚の中でも自分の国の城を目指していた。一緒に城を見に行こうと約束した友達とはぐれ、一人で城を目指して歩いているうちに、あることに気づく。自分が歩いている道が屍で出来ている事に。
驚くグリフィスに幻覚の中に現れた老婆が話しかける。
屍で出来た道は城に行くただ一つの道であり、屍を作ったのは城に行きたいと言い出したグリフィスのせいであり、城に辿り着くためにはもっとたくさんの屍を積み上げなくてはならないと。
夢に向かって真っ直ぐに歩みを進めてきたグリフィスが、誰も傷つけずに壮大な夢が叶うことはないと気づくシーンだ。
思うに、これは真実である。
世にない製品を作り上げるプロジェクトにおいて、誰も傷つかず笑ってハッピーエンドで迎えたことは一度もなかった。
ブラック企業とは程遠い環境であっても、気がつけば、誰かが病み、鬱になり、知らぬ間に派閥ができ、会議で泣き出す子がいたり、怒号が飛び交ったり……。壮大な課題に長い期間立ち向かっていくうちに、誰かが不幸な結末を辿ってしまってうことは必然のように思える。
ある先輩が「サラリーマンは耐久レースだから、途中で脱落しなければ、それだけで勝ち」と言っていた。そのとおりだと思う。
入社時、私の前を走っていた多くの先輩達は、ひとりひとりと脱落し、気づけば自分が責任者になっていた。
プロジェクトリーダーは屍の上に立たなければならない。
どんなに素敵なビジョンを紹介したり、期待に胸躍るような未来を語ったりしても、成功者の足元には屍が転がっているはずだ。巧妙に隠されているだけで、その事実は変わらない。
壮大なプロジェクトを指揮するリーダーは、狂人でなければ務まらない。
全てを理解したグリフィスは、城に辿り着くために再び屍を積み上げる選択をした。憧れの場所にたどり着くためには、他に方法がなかった。
屍を積み上げたいとは思わない
不満を漏らした部下が私を屍にして前に進んでいくのか、はたまた私が部下を屍にするのか。グリフィスと違い、私達は各々の道を選ぶことが出来ない。神の判断を待つのみである。
いずれにせよ、私はグリフィスのように屍を積み上げたいとは思っていない。仮にディズニーを倒すといった壮大な夢がある場合には、多量の養分が必要となるのだろうが、私自身は屍を積み上げてまで辿り着きたい場所はない。これまで仕事に生きる人生に惹かれたことはなかった。
それでも仕事は完遂しなければならない。
資本主義社会に生きる私達は、働かなければ生き残れないのだ。
屍を積み上げずに成果を出すためには、どうすればよいのだろう。
よく耳にするのは、モチベーションを保つことが大事という説だ。
私のように、元々のモチベーションが地を這うほど低い人はさておき、多くの人は働く中で身近な人や社会に認められることに興味を持ち、この達成をモチベーションとしている。そして、その先にあるのは理想の自分になりたいという自己実現欲求だ。
引用されすぎていてベタだが、マズローの欲求段階説はこれを端的に表している。雑に説明すると、生きるために必要な低次の欲求が満たされていくに従い、次第に承認や自己実現などの高次の欲求へと移り変わっていくという理論である。
世間のモチベーションに対する関心は高く、関連する書籍は大量に出版されている。私もいくつか読んでみたが、あまり参考になるものはなかった………というか、クソみたいな本ばかりであった。
例えば以下の書籍はベストセラー1位らしいのだが、時代の移り変わりによるモノやシステムの有無によって、低次の要求(団塊の世代が望む社会的欲求)から高次の要求(現世代が望む承認の欲求)に変貌と遂げたという、マズローの要求段階説を50倍くらいに希釈した内容が序盤に少し書かれていただけであった。
そして残りはうっすぅ〜い未来予想図と再現性のない成功体験ばかりが書かれており、モチベーションの話はどこにいったん???と終始不安のまま読了することとなった。
もちろん著者の下に転がっている屍には一切触れずだ。
ベストセラーではないが、情報化の進展によって私達の行く先が見えるようになった近代では、本来中年期に順を追って考えるべき実在的な問いに、青年期からぶち当たることになったと主張する『仕事なんか生きがいにするな』のほうが、よっぽどまともな書籍といえる。
象と象使いの戦い
近代では、集団からの承認や自己実現など、高次の欲求を満たすことをモチベーションに働く人が多いと仮定すると、そのモチベーションの維持が容易ではないことが想像出来る。
お金をもらっても満たされることのない欲求を追い求めながら働くことの、なんと難しいことか。加えて雇われ人である私達は、ほとんど毎日を無理難題の中で過ごすというストレスに瀕している。このような状況のなかでも屍にならないためには、正しいモチベーションの維持の仕方を学ぶことが必要と考えることが正道なのだろう。
しかし、色々書籍を読んだり研修を受けたりしたが、コレという方法に巡り合うことはなかった。そもそも「これこそが最強のモチベーション維持の方法です!」という人が一番信用出来ない。
どうやら私は、モチベーション教に取り憑かれた人にウンザリしているらしい。
モチベーションという不確かなものに頼るよりは、ヒトの性質を理解し活動したほうが、よっぽど効率的な気がする。
ということで(例の事件によって引用しづらいが)、今回も行動経済学のお世話になろうと思う。チップ・ハースとダン・ハースの著書『Switch!』だ。
本書籍は10年以上前に出版されたものではあるが、今年読んだ中では一番おもしろかった。ヒトの行動変化に大きく関わる「感情」と「理性」を、象と象使いに例え、実例も含めてスマートに解説してくれる。
本書では、本能的に動く感情は象、熟考する理性は象使いと説明している。
象と象使いの特徴を簡単に要約する。
これらについては、実例を思い浮かべるとピンとくると思う。
例えば、「ダイエット中にもかかわらず夜中にアイスクリームを食べてしまう」理由は、力の強い象(感情)が短期的な報酬(アイスクリーム)を欲しがるからであり、か弱い象使い(理性)が長期的な報酬な報酬(理想的な体型)のために象を押さえつけるには限界があることを表している。
では「シャイな性格を治したい」という事例ではどうか。
もしあなたがシャイな性格を治すために、意中の彼女をデートに誘うという荒療治を選択するならば、その性格はいつまで経っても治らない。高すぎるハードルには象使いも頭を悩ましてしまうし、怠け者の象も動こうとはしないだろう。
私達が意欲的に活動するためには、象使いと象が同じ向きを向いている必要がある。象使いと象の向かいたい方向が一致していなければ、力の弱い象使いは象の力に振りまわされてしまう。そして、象使いが行き先を決められなければ、面倒くさがりな象が変化を起こすことはない。
変化を細かくして、環境を整える
さて、該当の部下の話に戻ろう。
私からの細かなマネジメントから開放された部下は、自らの責任で開発活動を行い成果をあげなければならない。しかし、マネジメント層から素晴らしい評価を得るには至らなかった(もちろん、一定の評価は得ている)。
その理由は色々ある。
プロジェクトを運用するための仕事は多岐に渡る。技術的課題へのアプローチだけをしていても、前に進まない局面は本当に多い。販売までの計画を策定し、関連法規の対応、市場見積、協力部署との連携、マネジメント層への売り込みなど……面白くもない仕事にも工数を割かないと、プロジェクトは空中分解する。
部下の実務経験は申し分ないが、他の業務経験が圧倒的に不足していた。
本来は私がフォローして然るべきだった。部下の象使いが明確な方向性を持てるよう、細かなマイルストーンを設定し、象がやる気を失わないように小さな成功を褒め称えるべきだった。
しかし部下はその機会を拒んだ。「思うようにやれない」と。
結果、部下の象使いは方向性を見失ったのだ。
大枠のマイルストーンから、どうステップアップを刻んでいけば良いのか、その方向性を定めるには、部下の象使いは経験が不足していた。
どうしたら良いか分からない象使いに、象が従うことはない。シャイな性格を治したいのに、デートに誘うためのナンパを繰り返すようなものだ。まずはスーパーの店員に歯ブラシの売り場を尋ねるところから初めればで良かったのに……。
方向性が定まらず、モチベーションもあがらず、評価されることもない。教科書のような悪循環の出来上がりだ。こんなことが、あちこちで常習化されてしまっている。本当にウンザリする。
唯一、部下の象と象使いの方向性が一致したことは「しっかりしないプロジェクトリーダーが悪い」という私への非難だったのだろう。その後の顛末は冒頭に紹介したとおりだ。
まとめ
もし私や部下が世の成功者やグリフィスのように、屍を積み上げることを厭わない人間なのであれば、今回の案件は取るに足らない出来事である。合わない奴は切り捨ててしまえば良いからだ。
しかし、多くの日系企業ではそうはいかない。
採用するにも教育するにも膨大な人件費や時間がかかるため、上手くいかない人とでも「まぁいい感じに仲良くやってよ」と言われることが多い。ものすごく本質的ではないが、誰とでもぼんやり付き合えるだけで、一定の評価を得ている気もする。
ならば上手く付き合うに越したことはない。
モチベーションという曖昧な言葉に騙されず、ヒトの特徴を理解すれば、人間関係が上手くいくことも、イライラしないことも出来るかもしれない。それぐらい救いがあってもいいじゃないかと私は思う。
それでは。
(今までの記事はコチラ:マガジン『大衆象を評す』)
後日談
……なんとなくいい感じにまとまった気もするが、ひとつだけ話していないことがある。「お前もう船降りろ」とまで言われた部下と私のその後だ。
このままボンヤリさせたまま終わってしまってもよいのだが、ここまで過去最長の9000字以上書いておいて、発端となった事の顛末を書かないというのも些か不誠実かと思う。反面、公に書くことでもないという気持ちもある。
ということで、以下有料である。
繰り返すが劇的なドラマが起きたわけではない。
ありふれた退屈な結末を少しだけ書き足すだけなので、正直読まなくて良い。ほとんど自分のためのメモ書きみたいなものだ。
それでも読みたい方は、来年の私への投げ銭感覚で購入したら良い。続けるか知らんけども。
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