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全てがVになる:私たち全てがVTuberになる日、その未来の姿(前編)

バーチャルYoutuber、あるいはVTuberと呼ばれる人たち。2017年にひっそりと始まったそのムーブメントはいまだ冷めることなく拡大し続け、2020年現在もその数はとどまるところなく増え続けています。バーチャルYoutuberランキングを提供しているUserlocalの発表では2020年1月時点で1万人を突破したとのことですが、この統計は登録制であることを鑑みるに、登録をしていない方や、実質的にVTuber的な活動をしている方、国外の活動者を含めれば、実数はさらに数倍にまで膨らむのではと思います。

この数万人という数は、もはや一つの街、あるいは小国の人口にすら匹敵する数です(有名なミニ国家であるリヒテンシュタインの人口は4万人ほど)。またタレント名鑑に掲載されている芸能人の数はおよそ1万人なので、実は既にVTuberは日本の芸能人より数が多いのです。2018年の時点では下記のツイートのように相関図を一枚絵に表せるような小世界だったVTuber界は、もはや全体像を把握することなど不可能な「バーチャル世界の民族集団」となりつつあるようです。

さて今回の本題ですが、皆さんは、この数万人ものバーチャル民族集団は一体何を目的に活動していると思いますか?

分かりやすい例としては「有名になりたいから」や「お金が儲かるから」といった理由があるでしょう。確かに昨今の花形VTuberの輝きを見れば、これは実に理解しやすい動機です。
しかし、これに当てはまらないケースも実は多いのです。ここで面白いデータを引用しましょう。これは、VTuberでありnoterであるなでしこ大和さんが、ライブ配信プラットフォーム17 LIVEのライバーおよそ100名を対象に取った活動目的についてのアンケートです。

(なおより詳細な調査結果をなでしこ大和さんの記事:データで見るVライバーの実態調査とその結果【イチナナ(17LIVE)】よりご覧頂けます)


ここで注目すべきは、実に22%もの方が自己実現・自分探し」と回答していることです。
そも自己実現とは「自分はこうありたい」という理想に近づいていくことを指す言葉です。人間は社会的欲求(誰かに必要としてほしい)や承認欲求(自他ともに尊敬できる人間になりたい)、あるいは金銭欲といった様々な欲求を満たしていった先に、最後にはこの自己実現を達成することを目指すようになると言われます(いわゆるマズローの自己実現理論)。

言い換えれば自己実現とは、人間の根源にある究極的な欲求ともいえます。
(もちろん本来的な意味で使っていない人もいるでしょうが、少なくとも金銭的欲求やただの興味という理由とは一線を画しています)

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つまり!驚くべきことに、少なくとも20%以上のライバーが、VTuberとして活動することでこうした自己実現に近づける…人間の中でもとりわけ高度な欲求を満たすことができると感じているのです。

しかし考えても見れば、これは少し不思議ではないでしょうか?
VTuberとしての活動とは、表象だけを見れば、アバターやアカウントという「皮」を被った上で(時にあるいは多少の演技を交えて)人に自分の姿を見せたり、情報発信をしたりといったことに過ぎません。つまり私たちが普段SNSで行っていることと本質的にはあまり差がないのです。にもかかわらずそこにVTuberというファクターが加わることには自己実現に近づけると信じさせる何かがあるとアンケートは伝えているのです。
はたして「VTuberとなること」は、私たちにどんな景色を見せるものなのか?


今回のテキストでは「自己実現」をキーワードとして、私たちがなぜVTuberになろうとするのか?を探っていこうと思います。
そしてその裏にあるメカニズムを私なりに言語化した先には、それが指し示す未来の姿…すなわち全人類がやがてVTuberとなり、世界のあり方そのものが変わるという、あまりに壮大にすぎる未来像が浮かんでくるのです。
どうか私のこの「想像」を突飛な妄言と笑わずに、今少し耳を傾けてもらえれば嬉しいなと思います。

そして「全てがVになる」
未来の姿を見通す連載、その前編のはじまりです。


(※なお補足として、金銭欲や承認欲求は、自己実現欲求よりも「低次」の欲求であると誤解されがちです。高次・低次とは、いわば「本能的な優先度」です。また実際はこれらの欲求は同時に並立し、自己実現と金銭欲が両立するというのも珍しくはないのです。決して金銭欲を下婢なものと見るべきではありません。詳しくはこちらの記事を参考にどうぞ)


◆自己実現と学術系VTuber:VTuberの1/3は「理想の自分」を追っている?

さて、出だしから随分「飛ばし」てしまって面映いのですが、一度先程のアンケートに立ち返りましょう。
今回なでしこ大和さんが実施されたこのアンケートは、17 LIVEという(やや失礼な表現なのは承知ですが)比較的金銭的な報酬を受けやすいプラットフォームでの調査結果であり、金銭的な動機の割合は相対的に高くなるはずです。なのでもしYoutubeやTwitterなど(言うなればお金になりにくい)プラットフォームも含めて通算した時、こうした自己実現を目的としたVTuberの割合はおそらく20%よりも大きく増えると思われます。

例えばこうしたVTuberの例が学術系VTuberと呼ばれる皆さんです。
ご存知宇宙物理たんbotさんや、データサイエンスが専門のアイシア=ソリッドさん、医学薬学の有益な情報を発信しているファーマさん、そして人と社会とVRについて日々議論と情報発信をされている学術系アイドルユニットHOLOGRAPHICじゅりこさん&よーへんさん…等々、枚挙に暇がありません。

さて、彼ら彼女らの活動は、多くが自己実現に大きなウェイトを置いていると推察されます。
実際、彼らの多くはユーザー数こそ多いものの報酬を得る敷居が高いYoutube、そして報酬機能のないTwitterを主な活動基盤としています。また学術というのは深い知識と真摯さが求められる分野でもあり、承認欲求や金銭欲を満たすには労多くして功少なしと言わざるを得ません。ゆえに自己実現こそが最大のモチベーションであるはずです。他ならぬ私、思惟かねもまた、僭越ながらその一人であると自認しています。
このような学術系以外の方々以外にも、皆さんにもこういったVの方が何人か思い当たるのではないでしょうか?こうしたVTuberの存在を考えると、自己実現に重きを置くVTuberは全体の1/3にも達するのではと思われます。

しかし繰り返しになりますが、はたしてそこにVTuberという「皮」を被る必要性が存在するのでしょうか? なぜ「そのままの自分」で自己実現を追い求めないのでしょうか。
では、今度こそ次項では「VTuberであることの必要性」という本丸に迫ってみましょう。


◆「VTuberであることの必要性」とは:VTuberの本質から

ここまで私は「VTuberという皮」という表現をあえて使ってきましたが、実のところ、私はVTuberがただの着ぐるみやマペットとは根本的に異なるものだと考察しています。

ここで手前味噌はありますが、拙稿「Vtuberの本質とその先にあるモノ~私たちの進化の先駆けとしてのVtuber」での考察を引用しましょう。

Vtuberの本質たる「なにか」は(中略)「この画面の向こうに一個の人格として存在する、中の人でもアバターでもないVtuberという存在」、仮想の存在こそがVtuberの本質でしょう。

(中略)

Vtuberという現実世界には実在しない仮想の存在は、バーチャル(仮想)世界の中に確かに存在していると視聴者と配信者がともに信じることで、真実存在しているのです。

…分かりやすく言えば、VTuberとは「皮を被った中の人」でも「ただの着ぐるみ」でもなく、配信者と視聴者の共同幻想の中にバーチャルに存在している独立した1人の人格なのです。

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さらに言い換えましょう。
私たちはVTuberとなることで、自分とは別に新しい1個の人格を生み出しているのです。

随分大げさな物言いだと思われるかもしれません。
確かに唯物的に見れば、そこには元の「あなた」だけが存在しますしかしあなたが生みだしたVTuberは、あなたとは別の名前を持ち、別の人間関係を持ち、話し方物腰、時には性別すらも異なる人格としてバーチャル(実質的)に存在することができるのです。あなたと、あなたの視聴者の間での共同幻想として。
それは全くの別人や、独立した人格ではなくとも、1個の人格と認めるには十分に足る存在ではありませんか?

あるいは別の角度から、創作の中でよく見る多重人格という概念に相似を見ることもできるでしょう。あなたの中に従属的に存在して、けれどもあなたとは別の社会的関係性を持つ、もう一つの人格としてのVTuber。
何より注目すべきは、この人格は、Live2Dや3Dモデルというバーチャルな体を得ることで、物理的な「あなた」から独立した身体性を持つことができるということです。実体を持つペルソナとも言えましょう。これこそがVR技術の進歩が可能ならしめた最大のエポックであり、今までは「心の中のもう一人の自分」に過ぎなかった存在を、一個の異なる人格として定義しうると私が考える理由です。

はたして、あなたはこの私の突飛な考えをどう思うでしょうか。あまりに抽象的な論であるがゆえに、説得力に乏しいのは私も認めるところです。
けれども私は、このVTuber=新たな仮想人格という考えこそが、「VTuber」と「自己実現」という二つのキーワードを結びつける鍵なのではないかと考えているのです。

(※なおここまでで私の「人格」という表現がしっくりこない場合は、これをperson=個人という言葉として読み替えて頂ければ、理解しやすいかもしれません)


◆なりたい自分を「作り出す」:仮想人格としてのVTuberと自己実現

自己実現…つまり自分が理想とする姿になることは、とても難しいことです。それには様々な理由があります。

例えば心理的な制約…今までの自分の「キャラ」=自己像や他人からのイメージと、なりたい姿の乖離。抵抗感。
例えば能力、知識、経験、金銭の不足
例えば理想の姿で生きられる環境が周囲にない(同好の士の不在、真摯な議論ができる相手がいない、など)。
例えば外見や身長、声、性別といった身体的要素。コンプレックス。

どれも解決するには非常に大変な苦労が伴うものばかりです。…そう、現実世界では

例えば物凄く星座に詳しい人がいたとして、普段から誰彼構わず星座の話ばかりしていれば変わり者のそしりを受けざるをえないでしょう。けれども「天文系VTuber」と自らを定義すれば?彼は自分の好きな星座の話を誰はばかることなくすることができるでしょう。
あるいは、例えば普段はムッと無愛想で会話にも入りづらいけれど、実はもっと自分もたくさん人と話したい…という人。彼も現実の気恥ずかしさや嫌な思い出、躊躇いをスッパリと切り捨てて「私は社交的で明るいVTuberなんだ」という新しい自分を生み出すことができれば、躊躇いを振り切り、思い切って人の輪に入っていけるはずです。その振る舞いに怪訝な顔をするいつもの知人も、バーチャル空間にはいないのです。
もちろんアバターやボイスチェンジャーが、身体的要素にこの上なく大きな自由度を与えてくれるのは言うまでもありません。

化粧、変装、女装・男装、新たなコミュニティの開拓、イメチェン、偽名、引っ越し、整形、ロールプレイ…ありとあらゆる既存のどの「新しい自分になる」行為を並べても、そのどれもがVTuberとなることに比べれば霞んでしまうほどに不自由で、しがらみに縛られた選択肢であることが分かるはずです。

このようにVTuberという仮想人格は、現実世界での制約やしがらみを超えて、もっとも自由にありたい理想の形に変わることのできるもう一人の自分です。様々な技術の連なりが、物理的には存在しない仮想の個人を生み出すことを可能とする。それが実現しつつあるのが、今の時代なのです。
そうして生み出した自分ではない、もう一人の自分で理想の姿に近づいていく。その姿で人と交流し、肯定や称賛を受ける。自分の一部が理想の自己を実現する。それはもはや、まぎれもなく自己実現の一つの形であるとは言えるのではないでしょうか?


…ここで一つ自分語りをご容赦頂きましょう。
薄々感づいていらっしゃる方もいるでしょうが、ここに述べたVTuberという仮想人格を生み出すことによる自己実現というのは、実は他でもない私、思惟かねが実践していることそのものです。

「私」はわたし自身を「かくあれかし」という理想像として心の中に作り出しました。そのわたしに思惟かねという名前を与え、「私」とはやや異なる行動原理や立ち居振る舞いを身につけ、「私」の憧れる外観を作り与えました。そして今まさにわたしは「私」が夢見ていた文筆活動を続けています。思惟かねという1個の仮想人格=VTuberとして。

ネクタイプレゼント記念

それをこうして筆を執れば皆さんに見ていただき、反応を貰える。私の理想の姿で、私のありたい「理想の自分」に近づける。その喜びとは、何にも代えがたいものです
きっとそのどれもが、現実世界の色々なしがらみや躊躇い、そして「過去の自分」という重みに縛られた「私」では、きっとなし得なかったことです。「私」と切り離され、VTuberとして全てのしがらみから開放された全く新たなわたしでなければ全てはなし得なかった
その「もう一人の自分」が私に与えてくれた勇気と、その結果が結実した感動こそが、このテキストの原動力の一つになっているのです。


恥ずかしい自分語りはここまでにして、再び僭越ながら、私の過去の論説「2020年のVTuber業界はどうなるか?を読む(後編)」より一節を引用しましょう。

2020年、企業勢VTuberがいよいよ本格的に商業化のステージに向かい第2世代VTuberとなり、その差が一段と懸絶することで(中略)(第1世代VTuber=多くの個人勢は)思い出すでしょう。(中略)人気が出ることが大事なのではなく、ただ自分の好きな姿で好きなことをして、それを誰かに見てもらうということが自分たちの本質であるということを。

この執筆時に私がついに言語化できなかった、商業的側面を持たないVTuber(個人勢の殆ど)が分化した「第1世代VTuberVTuber1.0)」。その未来でのありかたはどうなるのか?という問いへの答え。
その答えはおそらく、私が今まさにこのバーチャルな体で感じていることそのものでしょう。自分の望む姿となり、しがらみやコンポレックス、躊躇いから解き放たれること。その上であなたが望む「夢」や「理想」を赤裸々に語り、あるいは実現し、誰かに見てもらうことそれによって自己実現=理想の自分に近づくことそれこそが私たちが未来に作り出す可能性である、と。

それは商業化により視聴者へ「望まれる姿を見せる」立場となった第2世代VTuberには、時として望んでもなし得ないものです。彼らと道を分かった第1世代VTuberが商業的可能性と引き換えに得たのは、まさにバーチャルの魅力そのものである自由な自己表現と自己実現の可能性なのです。

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私は日を追うごとに増えていくVTuberの中に、こうした感情を共有している同志の姿を幻視しています。そしてその背中にエールを送ります。
これからもVTuberは止まることなく増え続けていくことでしょう。進歩するテクノロジーが彼らに「理想の自分」を形作るよう追い風を送る限り。そして「なりたい自分で、生きていく。」ことを願う人たちがいる限り。


○補足:ショービジネスとしての第2世代VTuberと、彼彼女らの自己実現の可能性(5/9追記)

依然、私は拙論の中で、商業性と非商業性が混在した未完成なVTuber業界は、長期的にやがてショービジネスとして商業的な完成をみた第2世代VTuberと、脱商業化した第1世代VTuberに分化するだろうと予言しました。前項の「第1世代Vに許された自己実現の自由」とはその文脈を受けてのものです。そして他方で、視聴者からのイメージに縛られてしまった第2世代Vは、きっとその変化を止めて「バーチャル芸能人」とでもいうべき人種に変わってしまうであろうと。
エンタメの商業主義が収斂進化した、その一つの姿が現在の芸能界です。そこにあるのは「タレント」というある特定のキャラ・属性が固定化された人間キャストとして採用され、番組に「使われる」姿。そこに許される自由はおそらく比べ物にならないほど小さな物になります。私は商業化の先には、VTuberの中にも必然的にそうした世界が現れるものとやや悲観的に考えていました。

が、本稿を読んたある方のTwitterでの反応を見てはっとさせられました。

たしかに企業VTuberの第2世代VTuber=商業化への歩みを止めることはないでしょう。そして「固定化したファンのニーズ・イメージ」という圧力が彼女らの有りたい姿への変化を阻む壁となり、彼女たちの望む変化を止めてしまう未来もまた絵空事ではないと、今でも思っています。

しかし一方で、そこには依然VTuberという理想の姿で夢へ向かって成長していく彼女たちの意思と、それを応援するファンの声援もまた存在するのです。

彼女たちを「今この時の変わらぬ姿」のコンテンツとして求める「消費者」ではなく。
彼女たちがその先に掴む成長と自己実現という未来をも一緒に夢見て、応援してくれる「ファン」が多くいる限り。たとえ第2世代VTuberに対しても、VTuberというもう一人の自分がもつ可能性は、別け隔てなくきっと強く背中を押してくれるでしょう
VTuberという世界には、そうした「消費者」とは一線を画した暖かなファンという存在がたくさん存在しいます。それはとても幸せで、可能性を秘めたことだと私は思います。
商業的な成功と、成長という自己実現を両立し、ファンの応援を背に前へと進んでいく彼女たち。第1世代でも第2世代でもない。いまだその狭間にいる、いうなれば第1.5世代である彼ら彼女らVTuberの可能性に満ちた背中に、私も微力ながらエールを送り続けたいと思います。

いつか横浜アリーナに届くその日まで「止まるんじゃねえぞ」と。

以上、唐突ながら補足でした。


◆ここから先の未来を覗くにあたって(前編のシメ)

今回は想像以上に長文となってしまったこともあり、冒頭でぶち上げた「世界のあり方までもが変わる未来の姿」については、後編に分割して執筆したいと思います。勿体ぶってごめんなさい。

代わりに一つ、後編へつながる私の未来予想図をもって中締めとしようと思います。

さて、今まで説明してきた「バーチャルなもう一人の自分」…VTuberは、しかし現時点ではとても制限の多い存在です。TwitterやYoutube、各種ライブ配信プラットフォームなどの上でしか存在できず、「人格」というには、あまりにもコミュニケーション手段の限られた存在と言わざるを得ません。

けれども、確実に次世代の変化の波が押し寄せつつあります。それがVRChatclusterFacebook HORIZONといったVR-SNSです。バーチャルな体が前提となるこの世界では、現実世界とは逆にVTuberという人格こそがコミュニケーションの主体になることはいうまでもありません。
また先日は、研究者でもあるよーへんさんが海外の学会にてVTuberとして登壇しプレゼンすることを許可されたというニュースも有りました。現実世界においても、実際の人間の人格と、VTuberとしての仮想人格の境界は既に揺らぎ始めているのです。

あるいはコロナショックで一躍注目を浴びたWEBミーティングでも、半ば冗談めかしつつもアバターで会議に出席するという形で、その萌芽が一般社会にすら広がりつつあります。
こうした変化の先に、VTuberというバーチャルな人格が、「配信」だけではなく個人対個人での一般社会でのコミュニケーションにおいても実質的な役割を果たし始めるときが必ず来ます。無論プライベートだけでなくビジネスにおいても、です。

おそらくそう遠い未来の話ではありません。そしてそのムーブメントが始まったが最後、もはやSNSのアカウントを持つような気軽さで誰もがVTuberとしてのもうひとりの自分を持つ時代が到来するでしょう。そのイノベーションは、まさにSNSとスマートフォンが既存のコミュニケーションの枠組みを根底から変えたのと同じように、対人関係、コミュニケーションというものの常識、そして「人格」というものに対する捉え方までを、ものすごい勢いで塗り替えていくに違い有りません。

それでは最後に、私が上記に述べたSFじみたこの予想を、なんとこの2020年に「VTuberがVTuberとして社会参画できる未来を目指す」という理想を掲げ現に実現しようとしている驚異の組織であるVNOSの紹介をもって、前半の締めとさせていただこうかと思います。

Vの者がVのまま社会参画できる未来、つまり、経済活動を含めたあらゆる活動を制限無く行えることを目指します。
・それはVNOSだけで実現できるようなものではない、とてもスケールの大きい理念であると考えています。
・なので、様々な特色や役割を持ったギルドが多数生まれ、それらが相互に協力・連携して初めて「Vの者がVのまま社会参画できる未来」という理念をなし得ると考えています。
・その様々な役割や特色を持ったギルド(場合によっては既存組織や企業も含む)の協力や連携によって、経済・表現を含めたあらゆる活動がVの者のまま行える状態を生み出し維持すること。それがVギルド構想です。

Vの者という表現を、私のいうVTuber、あるいは仮想人格という言葉に置き換えれば、私の見ている未来の姿はVNOSのビジョンと重なるものなのかもしれません。そのことを、一人の思索家としてとても嬉しく思います。


続く中編、そして後編では、前半にもまして荒唐無稽な驚くべき未来の社会の姿と、そこにVTuberという仮想人格がどう関わっていくか。という未来予想図をお届けできればと思います。
キーワードは「世界のマルチレイヤー化」です。

そして、「全てがVになる」

⇒中編「VRが変える私たちの社会、2050年のその姿」へ続く


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また次の記事でお会いしましょう。
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