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「謝れてえらい」VTuberコミュニティの光と影:愛すべき「常識」との付き合い方

VTuberというコミュニティの美点の一つとして「肯定の文化」があると私は思っています。
かつて私は自分の文章の中でこのように述べました。

"インターネットではその匿名性ゆえに、批判的・攻撃的な投稿が目立ちやすい中、VTuber界隈は例外的ともいえる「優しい」クラスタだと感じます。否定の言葉よりも肯定の言葉を。黙視ではなく積極的な称賛を。"
"それを同じく美点と見ている方が少なからずいるというのは、本当に幸せで、VTuberに限らず広く広まって欲しい文化であると思います。"

こうした文化の一つの表れとして「〇〇できてえらい」というミームがあります。
「早起きできてえらい」「開始ツイできてえらい」「配信できてえらい」というようなリプライが、VTuberのツイートについている光景をよく見ます。あくまでミームにすぎないとはいえ、それは界隈の雰囲気を表す一つのエピソードでしょう。


しかしその中で注目に値すると思うのが「謝れてえらい」というフレーズです。

どうにも現代の社会には「謝っても許さない」風潮が蔓延しているように感じます。「炎上」した者は、そのきっかけになった出来事が悪いのではなく、さも炎上したこと自体がその人の悪性の表れだと言わんばかりに、たとえ謝罪をしたとしても「謝れば済むと思っているのか」と石を投げ続ける方は後を絶たず、「罪を憎んで人を憎まず」とは対極のありさまです。

こうした炎上への対処として、俗に「謝ったら死ぬ病」と揶揄される、炎上しても謝罪しない・だんまりを決め込むというパターンが時折見られます。道徳的な是非はさておき、こうした対処は実際に有効であると言わざるを得ません。
なぜなら先に述べたように「どうせ謝っても許されない」のであれば、謝罪をする合理的な理由(インセンティブ)がないからです。むしろ謝罪は新たな「燃料」(=話題)となり、炎上を長引かせることすらあるのが現実です。「炎上」とは所詮ほとんどの人とにとって他人事であるがゆえ、「燃料」が継続的に投下されなければ往々にして早く鎮火するからです。
(もっともそれはそれで問題が細く長く尾を引くことを忘れてはなりませんが)

何が言いたいかといえば、こうした「謝っても許されない」世間こそが、道徳に反する「謝らない」という対処のインセンティブを高めており、またその裏にある「炎上したら何をしても許されない」という圧力が社会を息苦しくしているのではないか、ということです。


それを考えると「謝れてえらいという言葉のなんと素晴らしいことでしょうか!
謝罪を受け入れるのみならず、それを積極的に肯定する表明が、どれだけ渦中の人物にとってありがたいことでしょう。
またややもすると不思議な話ですが、こうした「世間」…事態に際して「許さない」と言っている人たちは、多くの場合少数派にすぎません。1人の「許さない」の裏には、9人の「もう許してあげよう」という沈黙があるのです。それを可視化する「謝れてえらい」は、私たちにとっての「世間」を大いに優しくする言葉ではないかと思うのです。

今の時代こそ、私たちは「炎上」に言及するのと同じぐらいに、「許し」を言葉にしていかなければならないのではないでしょうか。


◆光があれば影がある

しかし肯定の文化が生む「許し」の文化は、一方で時に好ましからざる側面をはらむこともあります。
そうした暗い影の一面を私が感じたのが、先日起こったとあるVTuberによる詐欺事件での一幕です。

事のあらましはこのようなものです。
VTuberであるA氏は、日ごろから体調不良を訴えていて、そしてある日難病にかかっている旨を告白しました。そしてある日、突然A氏のアカウントに親族の名義でA氏が亡くなったという投稿がされ、故人の意思ということでアカウントも削除されました。
わずか1時間ほどで投稿が削除されたにもかかわらず、私が確認する限りでも直接のリプライだけで100件以上、それ以外にもA氏の死を悼む言葉がTLには溢れていました。

しかし後日になって、このA氏の死亡が嘘だったという驚きの事実が発覚。
実はA氏は「治療費が必要だから」と機材を売りに出し、購入を申し出た複数名から先払いで金銭を受け取っていました。が、その機材を引き渡すことなく、A氏は死を装い逃げようとしていたのです。
A氏は謝罪動画を投稿。上記の件について謝罪し、返金を前提に被害者と話し合いをしていると伝るとともに、今後も活動を続ける意思を見せました

本筋ではないので詳細ついては差し控えますが、どのような事情があろうと客観的には「死亡を装う」という悪質な手段を使い、機材の代金を騙し取った、れっきとした詐欺事件です(たとえ返金したとしても法律上「既遂」と見なされる可能性が濃厚です)。


問題は、こうして「復帰」したA氏に向けられた周囲の言葉が、あまりに温かかったこと…「生きててよかった」「おかえり」などのリプライが並んでいたそのことに、率直に言って違和感がありました。
あの時点では上記の詐欺事件の背景を知らなかった人がほとんどだと思いますが、それにしても死を騙ったという事実に対して、あまりに無頓着すぎはしないか、と。

確かにA氏の復帰と共に投稿された謝罪動画には、死を装ったことや、機材の引き渡しを免れようとしたことについての謝罪もありました
その謝罪をもって許す、と本心から判断した上で温かな言葉をかける人がこれほどいるのであれば、実に喜ばしいことでしょうし、私はその価値判断を支持します。


…私がこんな勿体ぶった言い方をするのは、はたしてその「許す」という判断は、本当にその人の心から出たものなのかを疑ってしまったからです。
VTuberコミュニティの「謝れてえらい」という美徳が、この時に限っては「謝ったから何であろうと許す」という形で好ましからざる影響を与えているのではないか、と。
仮にそうであったなら、あるいは将来その美徳が、本来正しく非難されるべきことに対しても無批判、思考停止という形で悪影響を及ぼし、光の側面にも影が色濃く差すことにもなりかねないのではないでしょうか。

繰り返しになりますが「許し」を言葉にできる文化は現代において非常に尊く、得難いものです。
しかしだからこそ、その価値を損なわないためにも、私たちには「雰囲気」に流されず己の理性をもって価値判断を行うことが必要なのだと思います。

私の感じたそんな危うさを、はたして皆さんは杞憂と笑うでしょうか。


◆「浮世離れ」の行きつく先

冒頭に触れた「肯定の文化」をはじめ、VTuberコミュニティには独自の文化、雰囲気、暗黙の了解がありますが、これはVTuberが現実でありつつも現実でない、あいまいな仮想の存在であることと無関係ではないと思います。
だからこそ、この時代に合って例外的な「優しさ」のある世界が成り立っているのでしょう。
言い換えればそれは「浮世離れ」とも言えます。これはいい意味にもなりえますし、あるいは前項で私が懸念したような悪い意味にもなりえます。

さて、同じように浮世離れした、独自のルールと常識を持つ空間といえば…と考えた時、私の頭に浮かんだのが「学校」でした。

学校というものが、例えば校則のような形で独自のルールを持ち、また世間とは一線を画した常識の中で動いていることは、多くの方が頷くところだと思います。
その背景には、公権力から教育の現場は自由であるべし、という形のない、しかしそれゆえに中々強固な「常識」があります。学生自治の取り組みや、学生の問題は学校内で処理するというのは、まさにその表れです。また世間の常識に染まらない、同年代の子供が閉鎖された空間に集まる場ということも、そうした雰囲気を強化しているでしょう。
事実、そんな場だからこそできること、生まれるものもたくさんあり、そうした輝かしい思い出を胸の内に抱えている方も多いでしょう。

しかし一方で、そうした教育現場の暗い「影」に目を向けると、れっきとした犯罪が「いじめ」として半ば放置され、そうした問題の隠蔽すら横行しているのは皆さんもご存知の通りです。
そうした教育現場の治外法権が社会問題化した結果、近年は文部科学省が方針を転換し、学校に積極的に警察を介入させるよう明確に指導するまでになっています。

いじめ事案に関する学校と警察との連携については,各種通知等において,学校から警察へ適切に相談・通報し,警察と連携した対応を図ること等を求めているところです。
(中略)いじめ防止対策推進法の趣旨及び法に規定された警察の役割について改めて認識するとともに,学校等との緊密な関係を構築するなどして,学校におけるいじめ問題への的確な対応を一層推進することなどが示されました。

いじめ問題への的確な対応に向けた警察との連携について :文部科学省
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1417019.htm
学校におけるいじめ問題については、教育上の配慮等の観点から、一義的には教育現場における対応を尊重しつつも(中略)警察として必要な対応をとっていかなければならない。特に、被害少年の生命・身体の安全が脅かされているような重大事案がある場合は、捜査、補導等の措置を積極的に講じていく必要がある。

学校におけるいじめ問題への的確な対応について:警察庁
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331900.htm

これは、たとえ崇高な理念の下、世間とは別の常識で動く空間といえども、それがもたらす光の部分がどれほど大きくとも、その常識があまりに世間と乖離すればいずれ軋轢を生じ、ついにはその壁も破壊を余儀なくされる、という一つの例であると私は思います。

普通の世界でなら「犯罪」とされる事件が、「いじめ」という曖昧な言葉ともに見逃されたその時に、「ここはそういうものだから」というその場の常識に流されることなく、己の価値判断に依って「それはおかしい」と声を上げる人がいれば…そうした行き過ぎた「浮世離れ」をいさめる人が世に多くあれば、あるいはこれも違う結果となったかもしれません。

私たちはこの結末から何を学ぶべきでしょうか。


◆さいごに:愛しき異界の常識との付き合い方

世間とは一線を画した別の常識で動く世界は、新たな素晴らしいものを育むゆりかごでもあります。
しかしそのズレが行き過ぎれば、その「常識」に流されて様々な弊害が生じ、いずれ破局に至る。それは光と影であり、分かちがたいコインの裏表です。

だから私たちは常に、その場の常識…あるいは「世間」の常識すらも超えた所に、己自身の価値判断をしっかり持たねばならない。そしておかしいと思ったならば、たとえ「常識」に対しても「それはおかしい」と胸を張って主張できる意思を持たねばなりません。

それがひどく難しいことであるのは事実です。けれど、私たちはそれに取り組み続けるべきです。
「光」となる美しい部分を愛するならば、決して無縁ではいられない「影」を制するために。
どうかあなたも異界の常識を愛しつつも、その常識に流されることはないように、と心から願います。


…あるいはこれも、万事大げさにしたがる私の杞憂なのかもしれません。

けれども、私は雨の日に火事の心配をする者でありたいと思います。
何の常識にも依らず、他ならぬ私自身の価値判断において。

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今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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