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「諦める」とは章を閉じること

「諦めんなよ‼︎」

と松岡修造に言われたら今の私はどう答えるだろう?

「いや、すみません。諦めます」

と言ってその場から帰ってしまうかもしれない。

「諦める」ってそんなに悪い事なんだろうか?
色々なアニメや映画で 諦める=負け のような感覚で語られがちだけれどそもそも何に負けてんだって話になる。

そういったフワっとした周囲からの空気感に長年苦しんできた気がする。それが近年ゆるゆると解かれていくのを感じる。年齢もあるのかもしれないが世の中の価値観の変化とコミュニケーションを取る相手が変わってきたからかもしれない。

さくらももこのエッセイ

なんだかゆるゆるとゆるゆるしてきた自分を意識させてくれた作品が最近読んださくらももこのエッセイ「さるのこしかけ」だった。

本の冒頭にインド旅行で感じたであろう彼女の文章が綴られている。

インドはゆっくり流れている。
(中略)
大部分のインド人は
その風習と諦めの底にいて
それでも生まれてしまった自分の生を
ずるずると引きずりながら
どうにかギリギリの笑顔を保ちつつ
あとはゆっくりした流れにまかせて
逞しく生きている。
(中略)
それすら内包しながら
ただゆっくり流れている。
さくらももこ さるのこしかけ

この文章を読んで感じたのは「諦める」という言葉が絶望的であったりネガティブな意味だけではなく所謂「悟り」的な意味で使用されているという事だ。

絶望も希望もネガティブも全てを内包しているという所が「諦める」という言葉から初めて感じる感覚だった。

「諦める」の言葉をググってみるとなるほど「諦める」とは「明らかにする」と同源であったりネガティブな要素はもそもそも無かったらしい。

そういえば「諦める」は「しめる」とも読める。レジ操作をする仕事をしていた頃なんかよく締め作業なんてのを毎日やっていた。あれだって店舗の1日のお金の動きを明らかにするって事じゃないか。

ネガティブさなんてものはなく、それはただの作業であって大切な事だ。

なぜネバーギブアップなのか

戦隊モノや正義のヒーローや美少女戦士達もそうだけれど彼らは決して諦めない。明らかにしない。自分達の信じる正義に一直線だ。その方がドラマチックだしこちらの感情移入もできるからだろう。

その正義自体を翻って考えて構造を明らかにすればまどマギとかバットマンのような作品になるのかもしれない。

確かに諦めず挑戦し続ける者が最後の勝者になるというのは1つの説として説得力があり、ある側面では真実でもあると思う。

だが諦めると執着するのを混同すると地獄が待っている気もする…。

同じ事柄に挑戦し続けるにしても一定の所で自分の今までの行動や結果を諦めて(明らかにして)進んでゆくのが良いのだと思う。

そうゆう意味ではレッツギブアップなのだ。

人生の章が変わる時

諦める時は人生の章が変わる時ではないだろうか?

上に上がる訳でも下に下がる訳でもなく章が変わる。
章を変えるには今まで経験してきた思いや体験を自分の中で明らかにして章として閉じて大事に保存すればいい。文章にしてもいいし絵にしてもいいし人に見せなくてもいい。

決して負けとか勝ちとかそんな基準ではない。

そうやって自分の人生を丁寧に綴っていけばいい。

希望も、絶望も、全てを内包しながらどんどん諦めて生きていけば良いのだ。

これでいいのだ。

#さるのこしかけ
#さくらももこ
#諦める

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