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傾きを保ったままのバランス

私は昔からバランスと言うものに人より敏感だった気がする。

例えるなら小学校の登校時、通学路の商店街に敷き詰められている石で出来ている排水溝の蓋の溝に左右の足が均等な数で踏めるように意識して歩いていたりしていた。アホか。

集団登校でもそれをやるモンだから後ろの方にいる高学年に舌打ちをされた事もあった。ごめんね、ゆうちゃん…

何故だか分からないけれど右足ばかりがその排水溝の蓋の溝を踏んでしまうと右足は重く感じるのだ。だからと言って普通に歩いている限り歩幅は一定だからますます右足ばかり重くなってくる。

困ったな〜と歩幅を変えて歩くと変な歩き方になって登校班で後ろを歩いているゆうちゃんが詰まったりする。そりゃ舌打ちもしたくなる「朝からなにやってんだコイツ…」と…しかもまたこの『登校班で一緒』という絶妙な距離感がミソで、特別に仲が良い相手同士では無いってのもあるし、学年も…………登校班の話がしたい訳じゃないのでこの話はそろそろやめよう。

人付き合いのバランス

小学生だって高学年にもなると女子の友人コミュニティはなかなか複雑になってくる。

当時は交換日記が流行っていて、人気のある子なんかは掛け持ちで交換日記をやっていた子も居た。この『どこのグループに交換日記を誘われるか』でクラス内の自分の評価が何となく分かる訳だ…今思うと恐ろしい。

そんな感じでクラス内ヒエラルキーが何となく顔を覗かせる中、小学5年生ぐらいの頃に友達に「アナタはすごいよね。何処のグループにも分け隔て無く入っていけるんだね」と言われた事があった。

グループが存在している事は分かっていたし、自分が何となく所属しているのはこのグループなんだろうな…とはうっすら思っていた。でも、だから他グループと交友してはいけないなんて言われてないし、何よりバランスを欠く。

こっちとは話して、あっちとは話さないのは右足ばかり重くなってくるのだ。

それは良くない、理由は分からんけどそれは良くない、気持ちが悪い。

両親の権力バランス

父は山口県出身のバリバリの家父長制を敷いてきた祖父に育てられ、自身の家族にも家父長制を敷いていた。本人としては「あんな父親にはなりたくない」と思いつつ、それしか家庭の仕組みを知らないのだから自然とそうなっていたのだと思う。自己矛盾で色々大変だったんだろうな〜っといまでは思う。

ただ、人より少しバランスを気にする子供の目線から見ると「おかしい…おかしいよ、気持ち悪い」となる。傾いている…なんとかもぅ少しバランスを取りたい…滑らかに、灘からに、

真ん中っこで唯一の娘なのもあってか、気づけば両親から両方の話を聞いて折衷案を出したり、お互いの愚痴を聞いたりしていた。

自分の中のバランス

自分自身も思う事はあるけれど、今はそれを意見する場では無くこの場のバランスを取らなければ…

とかやっていると、自分の中でのバランスが崩れてくる。「自分としてはこう思う」より「この場の物事がスムーズに運ぶには」の方が優先される場合、自分の事は常に端に寄せられ、自分自身で自分を蔑ろにしてしまう癖がついてしまう。最初はただ気持ちが悪いバランスを解消したかっただけなのに…

端的に言うと、自分軸が無く他人軸になってしまう場面が多々出てくる。

自分の歩幅で歩く

癖になってしまった物を治すのは非常に難しいし、癖でやっている事によって自分の環境も決まってしまう。

端に寄せられた自分を中心に置き直して、排水溝の蓋の溝を軸に歩くのでは無く、自分が気持ちいいと思える歩幅で歩き出さなければ…

そんな事に気付いたのは今思えば20代の後半頃だったように思う。それから出来るだけ自分の歩幅で歩いてきたけれど、やっぱり現実は自分の歩幅だけで進める事ばかりでも無く、子供に合わせたり、夫に合わせたりしながら歩いている。

ただ、この頃は「他人が望んでいるからバランスを取るために自分を蔑ろにする」のでは無く「自分が望んでいるから今は自分を抑えておく」まで考えられるようになった。

やっている事は同じでも中身は歴然の差がある。

……なんだか、まとまっているのかいないのかよく分からないけれど、兎に角少しづつ大人になってきたのかも…って話でしたね。はい。

ゆうちゃん…元気かな…

あの頃、舌打ちをしながらでも一緒に登校してくれたゆうちゃんにも、ここまで読んでくださった方にも感謝です。ありがとうございました。

ではまた!

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