120歳まで生きたいと語るおばあちゃん。
1929年うまれの92歳。千葉県柏市で一人暮らしをしている女性、それが私のおばあちゃん。晴子さん(仮名)。
92才にしてなお、一人で買い物をし、一人で新幹線にも乗り、スマホを操っている晴子さんを紹介します。
■ちょっとした人柄のはなし
静岡県浜松市で生まれた晴子さん。海の町。
もちろん晴子さんも泳ぎは大得意で、小学生の頃から授業で遠泳をしていたとのこと。そういや私もよく背中に乗せてもらって海に連れてかれていた記憶がある。
魚介類が美味しいから舌も肥に肥えていて、味にうるさい。
魚卵が大好きでいくらでもイクラを食べてしまう(ゆえに今は高血圧に悩まされているのだが、今回は触れないでおこう)。
ちなみに上記の写真を83歳の当時、ペロッと一人で平らげていた。
昔から負けん気が強くて、さらには短気ですぐに怒る(ゆえに今は高血圧に悩まされているのだが、)。
20代そこそこで結婚し、二人で商売を始める。それが「鈴木商店(仮名)」。
■鈴木商店のはなし
鈴木商店では主に下着、肌着、靴下などを扱っていて、BtoBもBtoCもやっていた。夫婦と1人のパートさんだけの決して大きな店では無かったけど、商店街の中にあって地域に慕われている温かいお店だった(しかも取引先から息子の嫁を探してくるので、大儲けも良いところである)。
■いま流行りのサードプレイスを持っていたはなし
そんな晴子さん、こんな時代からいま流行りのサードプレイスをすでに確保していた。2足の草鞋ならぬ、3足の草鞋。晴子さんは家庭×職場に加えて「踊りの師範」もしていたのです。
日本舞踊の先生。着物をきて、扇子や和傘を持って踊る(舞っている)姿は、私も子どもながらに美しいと思っていた。
お弟子さんが何人もいて、ここでも慕われていた。すごく厳しくて、しょっちゅう「指先まで力をいれて!」って怒っていたのに慕われていた。
一度お弟子さんに聞いたことがある。「怒られて嫌じゃないの?」って。そのお弟子さんも結構な年齢で、晴子さんとそう年が変わらないのに。けれど「先生は怒っているんじゃなくて、教えてくれているんだよ」ってお弟子さんは言っていた。
──当時は意味が分からなかった。
そんなこんなで晴子さんは旦那さんが亡くなってからも、一人で商売と先生と車の運転を85才まで続けていた。
■孫からみたおばあちゃんのはなし
ここから視点が急に孫になります。そう、わたしの視点。わたしはおばあちゃんにお世話になりっぱなしだった。
妹が産まれるときは3か月くらいおばあちゃんちに預けられていた。
おばあちゃんの踊りの邪魔をして、商売の邪魔をして、家事の邪魔をしていたけど、それでもいつも相手をしてくれていたし、お弟子さんにもお客さんにも可愛がってもらえるよう紹介してくれていた。
大学生の時も親が海外転勤で不在にしているからって、80歳超えているのにひとりで新幹線に乗って浜松から埼玉まで月に1回は必ず来てくれていた。美味しいご飯をいつも作ってくれていた。
しかも知らない土地なのに、公園でやっているラジオ体操にふらっと参加して新しい友人を見つけていた。
身内ながら、おばあちゃんの人情味深さといか、人を想う気持ちはすごいと思う。懐に入るのも、人を懐に入れるのも。
おばあちゃんの周りにはなぜか人が集まる。少し前まで年賀状は毎年150枚出していた。その甲斐あって、お年玉懸賞で1等賞の電子レンジが当たったこともある。
短気だしすぐ怒る印象があるんだけど、でもそれ以上に明るくて楽しくて、いつも人を想っている。
■人生100年時代というけどものはなし
※米寿のお祝いの様子
人生100歳まで生きる時代となったいま、いろんな生き方を求められることが多くなったし、「○○すべき」とか「○○はするな」とか強いキャッチコピーで溢れている。
けどそんな晴子さんに後悔していることは?と伺うと、家のお風呂の工事を100万円かけてやったのに、結局1年後に引っ越してしまったこと。なにか悩んでいることは?にはゴミ出しの時間がかなり細かく決まっていて夜のうちに出せないこと、と答えてくれた。
なんだ、90年生きていても悩みって普通じゃん。
120歳まで生きてみたいと繰り返し話す晴子さん。
変なキャッチに引っ掛からずに、小さな悩みを抱えつつも、楽しみながら生きてて欲しい。
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