グリッチ (2)
深雪は、俺の動き回る気配に振り向いた。寝ていたのではなかったらしい。月明かりのせいか、深雪の顔は酷く青白く、頬がこけ、目の周りが黒ずみ、死人のようだった。その目が潤んでいるのは、やはり泣きべそをかいていたのか、あるいは熱のためなのか。深雪の生気のない顔に俺は驚いたが、深雪は口の端をわずかに歪めて力なく微笑んだ。
「目、覚めたの、たっちゃん」
「うん」
俺たちは無言で見つめ合った。互いに生きていることが信じられない。再会できたことも信じられない。だが、深雪は毛布の中で丸くなり、震えていた。
「寒いのか」
「うん。寒くて眠れないし、眠ると夢見るし、もうちょっと参ったよ、今回は」
深雪は涙声になっていた。俺は、毛布を握り締めている深雪の手に触れ、その冷たさに驚いた。高熱から転じて、今度は低体温になってしまったらしい。深雪の手を握り締めてやったが、その程度では暖まりそうになかった。
「ちょっと待ってろ」
俺はまず、自分のベッドに戻り、毛布を取って来て、哀れなほど震えている深雪の上に掛けた。
片足と大刀で歩き回りながら俺がこんなことをしているということは、深雪の母はここには居ないということだ。居たら娘に付き添わないはずがない。俺にとっては第二の母でもある、優しいお袋さんだった。生き別れたのか死に別れたのか知らないが、戦争が始まってから、迂闊に家族の消息は聞かない習慣だから、俺は深雪に聞かなかった。いずれ、わかることだ。
「ちょっとそっちに詰めろ」
左脚を庇いながら深雪のベッドに乗り、大刀はすぐ手に取れるように自分の左脇に置いた。左脚は曲げられないので投げ出し、右脚だけ片胡座の姿勢でベッドの枕側に座り、毛布に包んだ深雪を引っ張り上げようとした。
「痛っ」
と深雪が身を竦めたので、怪我に触ってしまったことに気が付いた。
「ごめん、どこ痛い」
「左腕」
俺は深雪の左腕に触らないように気を付けながら、深雪を膝に乗せ、毛布ごと抱き締めた。
こういうことをすることに、躊躇いはなかった。仲間の誰かが刺されて低体温になった時には、回復するまで人肌で暖めてやるものだったからだ。それに、俺と深雪は、幼い頃、一緒に風呂に入った仲で、深雪は妹のようなものだ。
薄いパジャマの布地を通して、深雪の肌の氷のような冷たさが伝わって来た。これでは俺の方が腹を壊しそうだと思ったが、人肌というものは不思議と人肌を暖めることを俺は知っていた。
「こうしてれば、必ずあったまるからな。心配するな」
深雪は寒さに息を切らし、何も言わなかった。
俺は、深雪の薄さと軽さに少なからず驚いた。この骨と皮みたいな身体で、俺を蠍の群れから救い出したとは、俄には信じ難かった。
数分後、深雪は震えが収まり、呼吸も落ち着き、
「たっちゃん、ありがとう。少しあったかくなってきた」
と言った。
「礼を言うのはこっちの方だよ。深雪、一本、借りだ」
不思議なことに、こういう時は、最も些末なことに注意が向くらしい。寝ていたのだから当然だが、ざんばらに乱れた深雪の髪は、肘まで届きそうな長さだった。覚えている限り、中学生の深雪はいつも髪をひっつめていたから、俺は長髪の深雪を、この時初めて見た。
「お前さあ、髪、長いよなあ。どうやって切らずに頑張ったんだ」
深雪は笑い出した。しかし、三年間、水を碌に確保できない生活をしていた俺には、長い髪を維持している人が居るということが信じられなかったのだ。俺の髪は、雨水で洗うだけで清潔に保てる長さだから、一センチくらいの丸刈りだ。戦争中に、これ以外の髪型があり得るとは、知らなかった。
「ここは一体どこだ」
「藍之島」
あいのしま、というのがどこなのか、それも知らなかった。
「藍は藍色の藍。瀬戸内海の、広島県沖の小島」
と言われれば、地理的位置はなんとなくわかったが、それでもやはり意味がわからなかった。
「俺たち、箱根に居たよな」
深雪は、ふうっとため息をつくと、
「わたしが変な子どもだったの、覚えてるよね」
と言った。
深雪は変な子どもだったのではなく、奇抜な運動神経のある子どもだった。だがその時、俺は突然、得心した。いやしかし、そういうことがこの世にあり得るのか。
「まさか、お前…」
「そういうこと」
と深雪が言った。
「戦争になるまで、自分でも知らなかったんだけどね。わたしには凄い特殊能力があるんだよ。まあ、おいおい話すけど」
おいおいではなく、今すぐ話してもらいたかったが、深雪に先を越された。
「たっちゃん、前に刺されたことある?」
「あるよ、何度も」
「わたし、斬られたことは何度もあるけど、刺されたの初めて」
これで、泣きべそをかく程、深雪が参っている理由がわかった。
「症状は三日で収まるからな、死にゃしない、心配すんな」
「わかってるけど、もう三日経ったよ。なのに、まだこんな寒い。もう、いやになった」
と深雪が言ったので、俺は、怪我をしてから三日経っていたことを知った。
「三日経ったんなら、もう大丈夫だ。今夜中には治って眠れるようになるからな」
これは、気休めではない。毒が抜ける時は、ある時点を境に、嘘のように抜けるのだ。
「深雪、今日、何月何日かわかるか」
「えええ、たっちゃん、知らないの」
「戦争になってから、最初は数えてたんだけどな、途中でわかんなくなった。二○二○年の六月か七月だよな、今」
「そうよ。七月八日水曜日」
日付や曜日がわかるということ自体が、ものすごく懐かしい気がしたが、
「昨日、七夕祭して、みんなはスイカ食べたはず。食べ損ねちゃったね」
と言われ、唖然とした。七夕祭などという悠長な単語を聞いたのは、戦争が始まって以来だ。
「七夕祭なんかあるのか、ここでは」
それに、スイカもあるのか、と思っただけで涎が出て来た。
「そうよ、七夕の日だもの、当たり前じゃない」
どうやら俺は、本当に文明圏に戻ってきたらしかった。
「ここ、蠍は出ないのか」
「今のところ出ないよ。島だから。本土からは渡って来れないでしょ」
俺は、ほっと安堵の溜め息をついた。蠍がいつどこから現れるか警戒せずに、のほほんとベッドで寝ていられるというのは、三年余り、味わった事のない贅沢だった。自分の幸運が信じられなかった。
「深雪、ほんとにありがとな」
と言ったが、返事はなかった。深雪の顔を覗き込むと、既に眠っていた。三日間、悪夢と高熱に苛まれた身体が、疲れ果てているのだろう。俺も似たようなものだった。それから間もなく、俺も、壁に頭をもたせかけ、深雪を膝に乗せ、変な姿勢のまま眠っていた。
男の大声で、深い眠りから引き剥がされるように目覚めた時、深雪は既にベッドの脇の床に立ち、刀を構えていた。深雪が跳ね飛ばした毛布二枚が、宙を舞った後、俺の身体の上に降って来た。深雪が一体どのように起き上がり、毛布を跳ね上げ、俺の左側に置いてあった俺の刀を手に取り、ベッドから飛び降り抜刀したのか、俺には皆目わからない。変な子ども、と深雪が言ったのは、このことだった。
大声を上げたのが父親だとわかると、深雪は、刀を鞘に収め、崩れるように床に座り込んだ。師匠が、持っていた蝋燭入りのグラスをベッド脇のテーブルに置き、深雪を助け起こしに行った。その間に、俺は慌てて深雪のベッドを降りたが、左脚に体重を掛けそうになってバランスを崩し、倒れ掛ったところを医者に支えられた。その時の医者の険悪な顔を見て、なぜこの医者はこうも俺を嫌うのだろうか、と不思議に思った。
「お父さんが大声出すから、蠍が出たかと思ったじゃない。やっと眠れたのに、もう、エネルギーの無駄使い」
と深雪が師匠に文句を言った。
「いや、すまん、しかし、こいつは何をしているんだ」
「わたしが頼んだの。寒かったの」
深雪を立たせた時に、手が冷たいことに気付いたのだろう。
「いつからこんなに冷たいんだ」
「知らないよ。目が覚めたら凄く寒かったの。それで、たっちゃんの体温借りたの。変な想像しないでよ。やっと少し眠れたのに、もう」
深雪は、俺の方を向き、
「ありがとね、たっちゃん。あ、刀返さなきゃ」
と言った。深雪の手から刀を取り、俺に渡しながら、師匠は、
「いや、そういうことなら、竜樹君、済まなかった。君も休みなさい」
と言った。俺は、また刀を杖代わりに、自分のベッドに戻ろうとしたが、深雪が突然、
「たっちゃん、背が伸びた?」
と聞いたので振り返った。
「どうかな。最後に会ったのいつだっけ」
最後に会った日のことを思い出したらしく、深雪は突然、ばつが悪そうに目を反らしたので、俺は覚えていない振りをしてやった。
「高校三年だったっけ。大学行ってからも、五センチくらい伸びたんだよ。その後は、測ってないけど、伸び続けたかもしれないな」
深雪は俺があのことを覚えていないと思い、安心したらしい。
「やっぱりね、伸びたように思ったんだ。あ、たっちゃん、毛布も返す」
そう言われ、俺の毛布は深雪のベッドに移ったことを思い出した。真夏だから、俺には必要ないものだ。
「いいよ、お前寒いんだから、お前が使え」
俺は衝立の裏の自分のベッドに戻り、身を横たえた。医者が深雪のベッドの傍で、蝋燭をもう二本灯し、室内がほんのり明るくなった。
眠気が襲って来るまで、俺は衝立越しに、深雪達の会話を聞いていた。師匠が優しい声で、
「深雪、寒いならお父さんが腕枕してやろうか」
と言い、深雪が無情にも、
「絶対やだ」
と言ったのが聞こえ、俺は思わず苦笑を漏らした。師匠はふんと鼻を鳴らした。
「きょん連れて来てよ。きょん抱っこして寝る」
と深雪が言い、師匠が、
「いや、怖がらせるから」
と言ったが、それを遮り、深雪は、
「もう怖い夢は見ないみたいだから」
と言った。そうか、と言い、師匠は一旦、出て行った。きょんというのは誰だろうと思っていると、しばらく後に師匠が毛布を二枚持ち、小さな女の子を連れて来た。その子は、病室に入ると、師匠の手を振り切り、
「お姉ちゃん、もうだいじょぶ?」
と甲高い声で言いながら、深雪のベッドに走り寄った。
師匠の顔を縮小して真ん丸にしたような顔のその子は、早速、深雪のベッドに飛び乗ったようだ。俺が高校生の頃、小田原の深雪の家で、生まれたての赤ん坊を見せてもらったことがあったのを思い出したが、名前は思い出せなかった。きょんというあだ名なら、「きょうこ」だろうか。
隣のベッドでは、深雪が寒がらず、深雪の妹が暑がらず、一緒に寝られるように、ああだこうだと毛布の掛け方を工夫していた。深雪と妹と師匠と医者の話し声を聞きながら、俺はやがて寝入った。
人声に目が覚めると、もう明るかった。隣で、医者が深雪を検温したらしく、三十五度五分を超えたからどうやら大丈夫と言った。深雪は、昨夜、眠れたから、今日から食べて歩いてリハビリと言い、師匠と医者が、せめてもう一日休むべきだと言った。きょんと呼ばれていた妹は、もう居なくなっているようだった。
この時、聞いた話から、俺は、この場所のことをようやく少し理解し始めた。
深雪と師匠は、深雪が何日仕事を休めるか、相談していた。深雪の仕事というのは、蠍が徘徊する本州の町に単身で入り、背負い切れる量の食品や日用品や医薬品を持ち帰ってくることらしい。つまり調達係だ。十日以内には、本土に物資を調達に行かなければならないという話だった。師匠が娘に詫びていた。医者は、十日では無理だという意見だった。
この三年間に、あり得ないことを沢山見聞きしたが、それでも、自分が耳にしていることを、まだ信じられなかった。やはり夢を見ているのか、と思いながら、俺は、衝立の向こうの会話に聞き耳を立てていた。
結局、師匠が、あとは家族で看病する方がやりやすいと言い、深雪は「退院」することになった。足下がふらつく深雪を師匠が支え、医者が深雪の体重を回復するための食事計画を説明しながら、三人は連れ立って病室を出て行き、俺は一人残された。
(つづく)
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