グリッチ (10)

 「俺も漕ぎましょうか」

と聞いてみたが、

「いいよいいよ、もうちょっと沖に出るまで、押せやいいから」

と言われた。

 澄んだ水に泳ぐキスが見えた。

「見えるだろ。網で掬ったって捕れるんだが、それじゃあ、面白くないし、魚に不公平だろ」

と言い、六郎さんは笑った。面白いことを言う人だな、と思った。

「わしはねえ、前から漁師なんだよ。村長さんの道場の皆さんが、漁船でこの島に避難したいって言った時に、一緒に行こうと決めて来た漁師の一家なんだ」

俺は望月に聞いた話を思い出した。

「じゃあ、あの、港でリクルートされたっていう」

「リクルートって、面白いこと言うね、あんた」

と言って、六郎さんはけらけら笑った。

「まあ、でも、そうだね。わしらは、漁船を少し沖に停泊させて、蠍からは逃げていたけど、何せ船の上の物資が不足してねえ。命がけで陸に上がらないと水も飲めねえってんで難儀して、死ぬ覚悟で陸に近づけた時に、村長さんの道場の人達が、みんな立派な刀差して、船を借りてえって探していたからさ。こっちは、その刀で身を守ってくれるならって言って、あっちは、その船で海を渡してくれるならって言ってさ。まあ、そういうことだよ」

三十メートルほど沖に出てから、六郎さんは、竿を櫂に持ち替え、漕ぎ出した。

「俺も漕ぎましょうか」

と、もう一度聞くと、

「おお、そうだね。脚痛くないんなら、頼もうかね。あの岩場の向こうに回るから」

と指差した。

 俺が二本目の櫂を使い始めると、

「あんたも海育ちだね」

と聞くので、

「はい、八歳から小田原です」

と答えた。

「櫂の使い方知ってるね。じゃあ、話が早いや。漁もしたことあるね」

「はい、あります」

六郎さんは、嬉しそうな顔をして漕ぎ続けた。この人は、なぜか常に少し嬉しそうな顔をしているらしい。常に少し不快そうな顔をしている池田先生とは好対照だな、と思った。

 南の浜の南端の桟橋とは反対の端の岩場を回ったところには、コンクリートの船着き場があり、そこに、漁船が二隻停泊していた。

「あの舟で来たんだよ。でも今はもう燃料無いから、廃船だ。そのうち、解体して、ペンキを剥がして、燃料にしようって話になるよ、きっと」

二隻の漁船の横を通り過ぎる時、六郎さんはそう言い、寂しそうな顔をしたが、気を取り直したように言った。

「この島に旅行者が沢山来てた頃は、きっと、あそこが船着き場だったんだね。わしらの小舟は浜に着けりゃいいから、あんな立派な船着き場は要らねえやね」

 しばらく無言で漕いだ後、

「六郎さんということは、ひょっとして六人兄弟の六番目ですか」

と聞いた。

「違うよ。十一人兄弟の六番目」

そう言って六郎さんは笑った。

「十一人? 今時珍しくないですか」

「そうだねえ、でもわしの身内では珍しくないんだよ。うち、カソリックだから」

「は?」

 舟を漕ぎながら、六郎さんが話してくれたことによると、六郎さんの家系は四代前からカソリックなのだそうだ。話は明治維新に遡り、先祖が日本に入って来た宣教師から洗礼を受けて以来、代々カソリックで、教義上の理由で避妊をしないから、親族も皆、子沢山で、最大十四人兄弟だという。

「もう、従兄弟再従兄弟なんて、名前覚えらんないの。人数もわかんなくなるほど居るんだよ」

と言って笑い、その話の自然な続きとでも言うように、

「でもほとんど皆、死んじまったか、消息不明だねえ、この戦争で」

と言い、少し寂しそうに笑うのだった。俺は返す言葉がなく神妙にしていた。

「でも、弟二人と、それぞれの女房と、娘一人と甥っ子二人と姪っ子一人、一緒に逃げてきたからね。運が良かったね」

覚えきれない数の親族が死んだか消息不明なのは、運が良かったというのか、悪かったというのか、俺には測りかねたが、

「神様がちゃんと見ていてくだすったんだね」

と言い、六郎さんは相変わらず少し嬉しそうな顔をしていた。

 旧船着き場を通り過ぎ、東の浜と六郎さんが呼んだ未開発の天然の浜の先の岩礁を横目に更に漕ぎ進み、島の東側の沖に来た。

 六郎さんがそこで漕ぎ止めたので、俺も手を止めた。島を背に海側を向くと、右前方には瀬戸の島々が点々と見え、左前方には半島のようなものが見えた。それを指差し、

「あっちが本州で、多分東広島辺りね。あっちの島は臼島っていうらしい。他にも島が沢山あるんだけどさ、わしにとっても地元の海じゃないからさ、信行さんが印刷してくれた地図に載ってないことはわかんないんだね」

と、六郎さんは笑った。

 六郎さんは、舟の上で決して立たず、俺用に一本、自分用に一本の釣り糸に、釣り針と餌と浮きを付けた。

「はい、これ、あんたの分ね」

と俺に一本渡し、次は、サビキカゴに手許のバケツの中から撒き餌を入れ、サビキの仕掛けを投入した。

「二本目の釣り竿を持って来なかったからさ、あんたは、ただ糸を持ってるんだよ。引いたらゆっくり引っ張り返すの。最後は網で掬う。絶対立っちゃだめだよ。釣れた魚は針から外してこっちのバケツに入れる。餌が無くなったら、わしが付けてあげるからね。簡単だろ」

 俺たちは、小舟に座り、二人で合計三本の釣り糸を垂れ、静かな海に漂っていた。俺は六郎さんに半分背を向けた恰好で座っていた。鳥の声と波の音しか聞こえない、自然な静寂だった。夏の空は抜けるように青く、日差しは強烈で、陸地は樹々の緑が濃い。のどかだなあ、と思い、そののどかな景色の一部となっている自分に驚愕した。

 その時、突然、涙が溢れ出し、俺は慌てた。どこかの箍が外れたみたいだった。腕に顔を埋めて涙を止めようとしたが、一分程、止まらなかった。六郎さんは、恐らく気付いたはずだが、一言も言わず、俺の後ろで釣り糸を垂れていた。六郎さんの無言がありがたかった。

 俺は涙と洟を袖で拭い、振り向かずに、

「このことは、誰にも言わないでくれませんか」

と頼んだ。

「誰にも言わないさ。でも、恥じるこたない。誰でも泣きたい時は泣くんだよ」

そう言って、六郎さんは俺の肩を叩いた。

「さっきから、引いてるよ」

六郎さんは、俺の手から釣り糸をそっと取り上げた。

「あんたは怪我してるからね、わしがやる。濡らしてはいけないよ。こっちを持ってて」

六郎さんは、俺にサビキの竿と手釣りの糸を渡し、俺が持っていた手釣りの糸を器用にたぐり寄せ、網で魚を引き揚げた。小振りな鯵だった。

「ちっせえなあ。でも、これで夕食の足しにはなるからな。ありがたいことだ」

 六郎さんは胸の前で十字を切った。こうして、魚を釣り上げる度に十字を切りながら、六郎さんは半日のうちに、サビキで鯵を十四尾釣り上げ、手釣りでキス、イシダイ、イサキも釣り上げ、俺の釣ったキスや鯵も含めると二十九尾にもなった。昼前に、六郎さんが、今日はこれでおしまいと言い、また二人で舟を漕いで、南の浜の桟橋まで戻って来た。

 六郎さんは漁師なので、毎日、このように漁に出ており、弟の七郎さんと十郎さんも、別のボートで島の別の方角に釣りに出るそうだ。三人で、島民一人当たり一尾の魚が行き渡るほど釣れる日もあるという。魚網もあるのに使わないのは、魚の保存方法がなく、余った魚を市場で売れるわけでもなく、一日に消費し切れない量を獲っても意味が無いからだった。

 保存食として魚を干すか塩漬けにするには、人手と大量の塩や醤油や砂糖や酢が必要となるので、気温が下がった秋から冬にかけ、調達できた調味料の量も勘案して、村民総出で計画的にやるという。その日は、猫の手も借りたい程の忙しさになると言うから、俺も水産加工に狩り出される日が、じきに来るはずだった。

 六郎さんが俺に魚をおろせるか聞くので、おろせると言うと大喜びし、

「暇ならいつでもおいで。一緒に釣りをしようよ」

と言ってくれた。

 俺は、次に水産加工をするのはいつか、聞いた。秋口になったら決まるというので、その日には、張り切って手伝います、と約束した。

 六郎さんは、今日は大漁だと大喜びで、釣った魚を入れた網を背負い、調理場の方へ歩いて行った。

*   *   *   *   *   *   *

 

 翌日、万里亜が、朝飯前に、俺の部屋までやって来て、俺のパジャマを洗濯すると言い出した。パジャマはこれ一枚しかなく、パジャマ以外はこの島に来た時に着ていたものしかないので、俺は、パジャマを渡すことをためらったが、夜までには乾いているから届けると言われ、半ば強制的に、脱がされ取り上げられてしまった。

 ホテルの部屋という密室で、万里亜と二人きりの時に、下着一枚になっているのだから、俺は、焦って服を着ようとしたが、それをまた万里亜が甲斐甲斐しく手伝うのだった。ここまでされれば、俺でも万里亜の目的がわかった。俺は、万里亜に気に入られたのだ。そして、この島のしきたりに従えば、こんなことをしているうちに、すぐ祝言という運びになるのだろう。堪ったものではなかった。どうやって万里亜から逃れようか、頭を捻っているところに、万里亜が、

「お父さんと釣りしたんだってね」

と言った。おれは仰天した。

「え?ということは、六郎さんは…」

「そう、あたしのお父さん」

この可愛い顔が、あの人から生まれたのか。いや、それより何より意外なことがあった。

「てことは、君もクリスチャン?」

「そうよお。名前でわかるでしょ、普通」

当たり前のことのように万里亜は言ったが、「まりあ」という名前の日本人は、クリスチャンでなくても山ほど居なかったか。そんなことよりも、キリスト教徒のくせに、男の部屋に入り込んで、猛烈に求愛行動をするということが、あり得るのか。平均的な日本人よりも清楚で控え目で品行方正なのではなかったのか。俺の考えるキリスト教徒のイメージが、ずれているのか。

 俺は万里亜の顔をまじまじと見つめていたらしく、見つめ返され、慌てて目を反らした。

「お父さんも、竜樹さんのこと、とってもいい人だって」

一体いつから、俺のことを「たつきさん」と呼ぶ仲だ。大体、「お父さんも」ということは、自分もそう思っていると、告白しているようなものだ。

「俺、腹減ったから、朝飯行きます」

俺は大慌てで、腰に大刀を差し、松葉杖を突いてドアに向かった。

「朝ご飯食べるのに、刀要らないでしょ」

と、万里亜に呆れられたが、この頃の俺はまだ、刀を置いて出るという行動がどうしてもできなかった。万里亜は、俺の後に続き、俺のパジャマを持って部屋を出ると、

「じゃ、また、午後に乾いた洗濯物を届けに来るからね」

と言い、食堂に下りる階段とは反対の、廊下のはずれの非常階段の方に歩いて行った。洗濯をする井戸がそちらの方にあるのかもしれない。食堂まで付いて来るわけではないことを知って、俺はほっとした。

 しかし、万里亜が六郎さんの娘だと知ってしまった以上、六郎さんと釣りに出かけにくくなってしまったではないか。親子で気に入られていると知りながら、釣りに行ったりしたら、なびいたと言っているようなものだ。折角、毎日、六郎さんと釣りをして過ごせるかと思ったのに、その計画は没になった。

(つづく)

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