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こんなんでも生きていけんだなぁ、に出会う旅とか観光とか。

自分が知らないだけで選択肢ってのはいくらでもある。なんとなく頭で知っていても経験が付いてこなければ、手触りの感のないおぼろげな選択肢として流されてしまうこともある。

そして、知らないことが多いと、自分が知ってる選択肢の中にある価値観から(一時的だとしても)答えを取り出さざるえなくて、その価値観に自分が適応できるように動くし、適応できなければ「なんて自分はダメなんだ」と一つの評価軸だけで”社会不適合者”あるいは”人間失格”という烙印を押すことになる。

なんだろう、それは? 社会(コミュニティ)は人にダメと決めつけるために存在してるわけでなく、人がうまくやっていくための選択肢(振れ幅)を与えるために存在してるはずだと思うのだけど。

たとえば、東京という地で、一つの地域にずっと身をとどめて、そこで良しとされる価値観だけが”あたりまえ”であると信じて暮らしてきたら、それ以外の選択肢はダメになりがちだ。不思議と、「都落ち」という言葉がいまだ勢力を保っている。そんなわけないのに。東京以外の地域は、自分が暮らしやすい/働きやすいところとして相性がいいかでしかないのに。

冒頭の話に戻ると、選択肢を知らず経験のない貧困な想像力で(妙なロジカルシンキングで)物事を考えてみても、出せる答えは決まっている。「1+1=2」としかならない。じつは「1+1=5」や「1+1=10」になることを知らない、想像ができるわけもない。

で、自分の思い描く計算式に合うから自分は「生きていける」と思うのかもしれないが、意外と人間はしぶといので、計算外のシチュエーションでも生きていける。超都会っ子! 虫なんてもう無理! というお嬢様であっても、遭難して離島暮らしを迫られたら生きてくためには適応していくものだ。案外、こういうのも悪くないんだとか、必要と思ってたものは不要だっただなんてことに悟ったりする。そうやって人間の経験は形成されていくのだろう。

「こんなんでも生きていけんだなあ」

と自分の計算式には合わない、バグを引き起こすような人とたくさん会ったほうがいい。それは都会だろうが田舎だろうが、どこにでもいる。枠をはみ出るのはちょっとこわいかもしれんけど、今自分の頭を支配する”あたりまえ”だけで生きていくことのほうが恐怖だし、将来的にはどちらのほうがリスクあるんだろうねって話で。

「旅」とか「観光」とか、あんまりぼくは馴染みのないことばなんだけど、それを扱うとき、バグった人に会いにいくのを移動のきっかけにするのってめちゃくいいと思うんすよ。ただそれだけを書き留めたかった備忘録。


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