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自分の詰ませ方

3月から住みはじめた家には、ちょっと渋めの将棋盤が置いてあって、同居人を相手にちょくちょく将棋を指すようになった。将棋部の結成である。ぼくの将棋キャリアは、中学校のときに止まっていたから、実に15年振りくらいの戦いが日々続いている。

自分がどんなパターンで駒を動かしていたのか、いまだ探り探りで指し続けているのだけど、将棋ってすごいゲームだなぁ、と今になって噛みしめている。

王将を仕留めるために、相手の手を読みながら、その動きを封じるように一手一手を指していく。角だけに注目していると、角はおとりでしかなく、気にも留めていなかった桂馬がダークホースで脅威を奮ってくる......なんてことはよくあって、各駒への全体的な注意だったり、その動きを一手二手とパターンごとに推測し、さまざまな選択肢のなかから、こちらの一手を決断しないといけない。

そんなかんじで、「あっちから考えるとこう、こっちから考えるとこう......」と立場とか目線を行ったり来たりさせるこのやり方って、もしかしたら「クリティカル・シンキング(批判的思考)」のそれに近かったり、メディア記事のターゲット(読者)を明確にしていくための「編集思考」とかにも繋がるんじゃないだろうか。

ぼくがよくお世話になっている経営者も「戦略脳は将棋で鍛えた」と言ってたのもあったし、将棋の学びは実用性があるだなぁと。少し見方を変えてみると、将棋の指し方で相手の思考の型やリズムを掴むこともできるのかもしれない。一局を交えることで相手を知るってのもこれまた趣き深いなあ。

そんな将棋にまた触れるようになって、最近、知人と「自分の転がし方」について話をする機会があった。いわゆる、「なかなかに腰が重い自分をどうやって奮い立たせる?」っていうお題で、あれやこれやを聴いたり話たりした。

「モチベーションを上げるために」とか「目標を小さくつくって」とかいろんなティップスが出た気がするけど、やはり相性はあって、ナマケモノ気質のぼくの場合は、そういうポジティブかつ精神的なやり方はこれまでハマった記憶がない。

ナマケモノでも死を目の前にした窮地に追い込まれると、それなりに動く(もがく、というほうが正しかも)。というように、”それをやらざる得ない”状況に自分を追い込めれば、サバイブするべくおのずと動く”という理論のほうがぼくに気質には相性がいいようである。つまり、内的要因よりは、外的要因に注目したほうがいいタイプってことみたいで。

たとえばの話、ぼくはもともと「なるべくは自分の手でつくるように」と暮らし方を心掛けていたのだけど、数年それができずにずっといた。東京にいるときは、すぐに甘えて外食ばかりで、自分でつくる機会を自分で奪っていたように思う。

そこで、環境を変えようと思い切って、鳥取のなかでも田舎で暮らすことにした。家の近くには外食する場所はほぼほぼない。となると、基本は自炊をしないといけない環境にある。ここに来たことで”ご飯をつくらなきゃいけない”状況を得たのだ。

基本1日2~3食分は自炊するのもあって、ちょっとずつ腕が上がってきているのは実感できるし、都会では別段食べたいとは思ってはいないけど食べていたことを考えると、今は自分が食べたいものを自由につくれる楽しさもそこそこあることに気づき、当初は予想もしていなかった副産物もあった。

だからこそ余計に、やっぱりこれは、環境とか仕組みのデザインの勝利だったと思う。そういえば、もともと夏休みの宿題は最終日にやっていったし、試験前も前日(場合によっては早朝)から必死こいてはじめていたし、追い込まれないと動かない兆しは昔からあった。

外国語習得とかも、使う機会のない日本で学ぶのも一つの手だけど、結局のところ、その言葉が話される現地に身を置いて、まわりに日本人(日本語をしゃべれる人)が一人もいないところで生活してれば、おのずと言葉って覚えていくものだ。死活問題だから。

そう思ったときに、将棋のことがパァッと思い浮かんじゃって、「詰み(王将が囲まれ逃げ場がなくなる)」と同じように、自分の逃げ場のないように、どんどん環境づくりをしていくと、ひょいひょい動いていくこともあるよなぁ、とハッとしちゃって。

やろうと思ってorやらないといけないのに、できていないことはたくさん。自分を詰ませるための、ありとあらゆる戦略をもっともっと学んでいかねばですね。自分が詰みやすくなる型を修得したい。なんなら指南書(教科書)づくりをしたいくらい。

ちなみにぼくの下の名前が「将五」なので、詰み将棋ならぬ、詰み将五だなと……。はい、お後がよろしいようで......(記事公開後、お酒を浴びるように飲もう)。

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