「一人で」にこだわると、理解が鈍る。
一人でだと続かない、それどころか始まりさえもしない。
だから二人で三人で、と、他人の手を借り、巻きこみながら、”ゆるやかな強制力”に則って、自分のめざす方向に向かっていく。そのやり方は選択肢のうちの一つでしかないのだけど、「全て自分一人でやらなくちゃ」と締め付けがちでしんどくなってしまうくらいなら、手札には加えておくといい選択肢であるのは間違いない。
今思えば、2012年に始めた「ハチナナハチハチ」という共同ブログは、まさにそれだった。
「一人でブログが続かねぇな」と思っていたなか、当時の職場の先輩たちを誘って始まったブログ。なんとなく'87'と'88世代だね、という共通項をみつけ、次第にこの世代の人に書いてもらえる人も徐々に増え、一時期はブログメディアっぽく動いていくほどになった(ここでの書く多経験をもとにライターとして仕事をもらえるようにもなった)。
あのとき、初めて「自分の”一人で”のできなさ」を認めて、ソロプレイを手放してみてよかったと思えた。小っちゃな成功体験だったけど、20代前半のあそこで玉を転がせていたから、20代後半~30代前半と雪だるま式にちょっとずつ大きくなってきて、今の活動/プロジェクトがあるんだよなぁなんてことを、ふと思っちゃたわけで。
そんで(やっと)本題。
「書くこと」の習慣については、もう一人でできるもん状態にはなっていると思う(ちょっと怪しさはあるが…)。次にやっていきたいのは、「しゃべること」の習慣化である。
「書く」と「しゃべる」、同じアウトプットのように見えて、言葉をぎゅうっと圧縮する「書く」に対して、考えるよりも口が動くこともあり発散的な活用ができる「しゃべる」。自分の言葉にすらハッとしてしまう瞬間があるのは、しゃべることの強みだし、「書くためにしゃべって整理する」も一つの手法であるのは多くの書き手が痛感してるはず。
長い人類の歴史をみてみても、人間は”話し言葉”からコミュニケーションを始めたわけで、この遺伝的親近感のあるアウトプットを活かさないわけにいかない(以下TED動画は、「書く」と「しゃべる」を考え見直すのにオススメ)。
さてさて、「え、しゃべるのは普段からやってるっしょ?」と思うかもしれない。確かにそうなのだけど、「しゃべる」の意味合いが異なる。
人によって量的なバラつきはありつつも、仕事を通じて、またプライベートでも日常的にだれかとしゃべってはいるだろう。とはいえ、その行為は無意識下のものが多く、オープンに第三者に聴かれるものとして「しゃべる」というのは、やはり意図的なものであり、取り組もうとしない取り組みにくいものだと思う。
細く長く、とりあえず100回やってみるかと一人で始めた「ケケケのラジオ」は、3年かけてやっと目標を達成した。が、これはあくまでオープンな記録でしなくなく、第三者の意識はとてつもなく低い。
そんなこんなで5月から実験的に始まったのが、「さかみじゃの思ってたんと違う」である。ブログの手法を思い出し、友人を巻き込むことにした。
ここでは特に内容には触れないが(どこかで文字としても記録したい)、3ヵ月が経過して、「なんやかんや続いてるぞ」という実感は朧げにあり、アーカイブが増えるにつれてじわじわと聴衆数も増えるという実感値は確実にある。
だいたいのことは、続けてみてからしか効果はわからない。逆にいえば、続けてみないと本当の意味では(身体的に)理解できない。だれかの経験を読んだとてわかったつもりにはなれても、やらねば、続けてみなければ、わからぬまま一生が終えるのだ。
ってことで、一人で続かないのであれば、一人じゃない方法も試してみるといいんじゃねーか、という共有と提案でした(あくまで学習的観点として)。
意外や意外、わりとみんななまけもので、誘われるのを待ってるかもしれないすよ。そー考えると、誘うのも力だ。
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