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デジタル風呂から上がるすすめ

 ヒジョーにひさしぶりの日記でございます。

 年度末・年度始め・間にコロナが挟まって、さらには尿路結石になった猫(たら)の看病も相まって、ややバタついていたんだけど、ほんの少しだけ余裕が出てきた感はある。

 とはいえ、まだできてないタスク、それに返信できてないメッセなどなど、盛りだくさんなので、引き続きみなさまよろしくお願いします、といういったあんばいのGW前のボクの現状です。

 最近はといえば、ちょっとした変化として、デジタルツールのON/OFF時間を強く意識するようになった。

 もともと、なにかしらのデジタルデバイスに対する恐怖感みたいなものがあったんだけどね。

 そいつは、いつの間にか画面越しに”強制的に社会と接続させられてる”ことに対する恐怖であり、能動性よりも受動性が凌駕するようなかたちで、ありとあらゆる情報が目に耳に頭にダダダダダダダダっ入り込んでくる。

 霊に憑依されて体を乗っ取られるんじゃないか、ってくらいにビビる。

  受け身で情報が入り込んでくる状態ってのは、「考える」ではなく「考えさせられる」状態なわけで、これはメンタル的には健康といえるのだろうか、とボクはあるとき思った。そう、思ってしまった。こりゃやべえな、と。

 そういうわけで、やっと最近の習慣の話になるんだけど、デジタルに対抗する(アンチデジタル)ために、アナログな時間を起床後と就寝前に最低1時間以上はつくるようにした。

 具体的には、「コーヒーを淹れる」「落書きをする」「(原稿用紙で)文章を書く」「資料を整理する」「ストレッチする」「本を読む」「掃除をする」などの類を意識的に行っていく。

 そうすると、微々たる変化ではあるが、「考えさせられる」でなく、ゆっくり、じっくりと「考える」時間がかなり増えた。ものづくりにおける”生産的思考”の回転が早くなったような気もする。

 ここで改めて気づくのが、デジタルってのは生産ツールでしかなく(リテラシーを持って向き合うべきものであり)、人間らしき、自分らしい思考というのはアナログに委ねたほうが圧倒的に良さげだということ。

 はるか昔、火を起こすことを覚えた人類は、暗闇で焚き火を囲んでいたはずだ。そのぽおぽおと揺らぐ暖かな炎は、人間を考える人たらしめたのではないかとつい妄想してしまうなぁ。

 アナログに”考える葦”ではなく、デジタルに”考えさせられる葦”となってしまっていた自身を反省するし(むしろその事実を真正面から向き合う/考える時間がつくれた)、まあ、改めて、そのうえで「デジタルさん、どうぞよしなに」と挨拶しておきたい。

 さっき毎日のアナログタイムには「(原稿用紙に)文章を書く」ことをやってるといったが、そうやってると、不思議とnoteにも書きたい欲が高まってきちゃって、そんなこんなで今ここにタイピングしてるところでございますよ。

 たぶん、これ(アナログ→デジタル)こそ自然な流れ。

 アナログにしろ、デジタルにしろ、「書く」ことはボクにとっては、ヘルスマネジメントの一部。

 コロナさんの影響もあってか、家にいる人もだいぶ増えただろうし、その分、デジタル湯にどっぷり浸かる人も増えたのではないかと思う。

 でね、こんなときだからこそ、あえてデジタルオフしてみてほしいし、自身と向き合い、暮らしを見直し、「考え」、うちで踊ればいいんじゃないだろうか。

 閉ざすことで見えてくるものって意外と多いのよ。とにもかくにも、浸かりすぎて"のぼせ"ないようにしなくちゃ。

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