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おしゃべりだから困る

 おしゃべりとは、ボクのことだ。小さいころから、うるさいくらいしゃべっていて、よく「話を聞け」と言われたものだった。

 たぶん性格的にも、一方的で、価値観を押しつけがましいタイプの人間ったんじゃないだろうか(恥)。

 だから、仲を良くしてくれてる友人も、話を聞いてくれる/話を聞くのが好きな人だったり、同じくおしゃべりで雑談/議論好きな人だったりする(とボクは思っている)。

 でも、それはあくまで”プライベート”だから許されるわけであって、仕事においては(職業にもよるだろうけど)そういうのを抑え込まないといけない瞬間が多々ある。

 ボクの場合、社会人になってからというもの、カクテルにしろ、企画にしろ、取材にしろ「聞くこと」が主というか、一貫する姿勢なので、もとものの性質とは180度違うことをやっている。

 それは苦手なこと......と思いつつも、真摯に向き合いはじめて、経験を積み重ねていくと、意外にも「あれ、聞くのって楽しいし、わりと得意じゃね?」という気づく。

 おそらくその根底にあるのは、「自分がおしゃべりするときのネタを、自分ひとりでは思い付けないようなネタを人からもらえるから」なんだろう。

 しゃべりたい気持ちをグッと抑えて、聞くことに徹する。そうすることで見えてくる自分という人間、相手という人間の深みは少なからずあって、公⇔私で「話す」と「聞く」の量のバランスをとりながら、自分はどうにか日々をやれてるのかなぁと思う。公私ともにおしゃべりだと一方的で自分も周りの人もつまらないし、困るだろう。

 そういう意味では、「自分のやりたいことか」はさて置き、仕事でやってることが、知らず知らずのうちに身を守り、新たなスキルを授けてくれてるってことはあるのかもしれない

 「本当はこんな仕事をしたいんだ」だとか、「仕事をする意味」だとか、仕事の理想だったり自分の向き不向きだとかを、就職前に頭だけでこねくり回して、業種とか働き方を決めようとするけど、じつは仕事をやり始めに気づけることのほうが大切だ。経験なき思考は脆弱だからだ。

 数年前だったか、那覇の公園でぼーっとしていると、同じくぼーっとしているおじいちゃんを見つけた。なんとなく目が合って、ゆんたく(おしゃべり)をしていると、戦争を経て、北部から那覇までどうにか出てきて、見習いから大工をはじめ、建築設計の社長をやるようになって、という彼の半生についての語りを聞いた。そのとき、さらっと言ってのが印象的だったのよね。

 「大事なことは、自分という人間は、仕事が教えてくれるよ」だってさ。仕事というトンネルをくぐることでしか見えてこないものがある。だから、「若いうちは”ちばって(がんばって)”働くんだよ」らしくて。了解しました。

 働こう。食うもん食ってごろごろして殿様気取りじゃいけねえし。


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