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ゆさぶれられない自由

 落ち着きを感じないときには、忘れものをしてる。”最低限”こういうことができてりゃ暮らしていけるのだ、という根っこが自分にもあったことを。そこから生えてきたものが今の幹をつくり、枝葉をのばし続けているのだけど、いつの間にか「もっと枝葉を、あわよくば実を」と欲張りになってしまう。いや、正しくは「もっと実を」という世の中の誘惑に屈したり、「もっとやれるでしょ」という周りの圧に押し出されているだけだったりする。

 自分の最低限の暮らしができて、自分が大切にしたい時間(暇)をつくれたら、本来はそれでいい。猫と昼寝ができればいいし、ゆっくり本を読んだり、文章を書いたり、どうなるのかよくわからない食材の組み合わせで料理をしてみたり、そういう時間があるだけで日々は充実するはずなのだ。「深く長く考える」、その時間を奪おうとしてくるものとはとことん闘っていかなくちゃいけん。

 そう、深く長く考えられる時間をつくれているか、そういう自分がのびのびといられる環境をつくれているか、ただそれだけなのだ。

 自分の”最低限”を見つめて、あれやこれやを手を出さず、流れて込んでくる期待の水流をとどめるダムをつくり、自分の軸を取捨選択をして過ごしていく。まわりに何かあったとしても、ゆさぶられることなく、自分の根っこに則した暮らしをしていく。そういう自由は追っかけたいし、掴まえたらとにかく死守してぇんすよね。


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