気づくということ

 生活を見直すのは難しい。自分では何とも思っていないことが、意外な影響を与えているかもしれない。歯の磨き方や、顔の洗い方など、自分では普通だと思っている習慣が本当に正しいのか、気づくこともできずに日々過ぎ去っていく。
 高校生のときに携帯電話(J-PHONE)を手に入れてから、今の年齢まで寝るときはいつも枕元に携帯電話を置いて寝ていましたが、先日何となく携帯をリビングにおいて寝てみたところ、眠りの質が向上することに気づきました。これまで20年以上(ほとんど必要のない、むしろ邪魔な)情報をほんの少しはやくキャッチするために、質の低い睡眠に耐えていたと考えると、なんともったいないことをしていたのだろうかと後悔の念をぬぐえません。
 最初に「難しい」と書いたのは、習慣を改善することではない。携帯をリビングに置くことなど何も難しいことではない。「難しい」のは「気づく」ことである。ほとんどのことは問題に気づくことすらできない。これらのことに気づくためには、自分の生活を常に監視する、もう一人の自分の存在が必要である。日々の生活の中で何十個、何百個、気づけていない悪習があるのだろうか。
 より根源的な生活習慣として「呼吸」というものがある。自分がどのように呼吸をしているのか気づけている人は意外にも少ない(もちろん私もですが)。これから先、自分の呼吸の仕方が間違っていたことに気づき、後悔するのかもしれない。仏教的な「悟り」や「啓示」なども「気づき」の延長だと聞いたことがある。生きることは「気づき」を増やすことなのかもしれない。
私が見てきた教師の中で、心から尊敬する方々はみな気づきのプロでした。生徒の日々の変化や教室の些細な変化に気づくことが、教師の大事な資質なのだと思います。

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