美しき君の倫理観:ピーター・スワンソン「そしてミランダを殺す」を読む

8月の終わりに読みました。

貴方には「絶対に許せない人」が、何人いますか?
その人はなぜ「許せない」んでしょうか?
そして一生のうち、何人くらいまで「許せない人」がカウントされると思いますか?
ピーター・スワンソンの『そしてミランダを殺す』を夢中で読んだあとで、そんな疑問がふと頭に浮かびました。
私ですか?聞かない方が身のためだと思いますよ!

昨年末「このミステリーがすごい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「ミステリが読みたい!」の3つで堂々2位に輝いた作品。

この本を押さえつけた三冠王が、アンソニー・ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』です。これに加えて「本格ミステリベスト10」も取ってるので四冠です。バケモノです。感想書いてないけど『カササギ殺人事件』も正月に読みました。

ランキングが出た当時「『そしてミランダを殺す』がいつもなら1位。但し今年は『カササギ殺人事件』が圧倒的すぎる」と言われていた訳がわかりました。
遜色なし。一言で差を言うなら
『カササギ殺人事件』はアガサ・クリスティ、
『そしてミランダを殺す』はアイラ・レヴィンやパトリシア・ハイスミス
という感じ。傑作の方向性が違うってことですね。
私はアイラ・レヴィンが好きだから、こっちの方が好みではあるかなあ。

ーーーーーーーーーーーーここからネタバレーーーーーーーーーーーーー

それはヒースロー空港から始まった

いや、本当はもっと前に始まっていたのですが、あらすじはこうです。

ある日、ヒースロー空港のバーで、離陸までの時間をつぶしていたテッドは、見知らぬ美女リリーに声をかけられる。彼は酔った勢いで、1週間前に妻のミランダの浮気を知ったことを話し、冗談半分で「妻を殺したい」と漏らす。話を聞いたリリーは、ミランダは殺されて当然と断じ、殺人を正当化する独自の理論を展開してテッドの妻殺害への協力を申し出る。だがふたりの殺人計画が具体化され、決行の日が近づいたとき、予想外の事件が起こり……。4人の男女のモノローグで、殺す者と殺される者、追う者と追われる者の攻防が語られるスリリングな快作!

と言う訳で、浮気された実業家の男テッドは、謎の美女リリーに出会い、妻ミランダの殺人計画を進めます。ミランダは典型的なセクシーで●ッチな女で、夫テッドのことは完全にATMだと思っています。テッドはリリーの魅力に惹かれつつ、ミランダを殺して浮気相手を犯人に仕立て上げようします、ところが……。

『そしてミランダを殺す』は三部仕立てで、これは第一部のあらすじです。これだけだと、よくあるミステリのあらすじみたいじゃないですか?
このまま順調に行けば、多分夫は妻を殺し、リリーと何やかやあって警察との心理戦があるんだろうとか、思うじゃないですか?普通!


この本は第二部からが本番です。本当はもっと前に始まっていたんです。
「妻ミランダによるテッドの殺害計画」が。
第一部のラストでテッドはミランダの殺害計画により殺されてしまいます。「殺す者」と「殺される者」が逆になってしまうのです。ええええ!!
第一部はタラタラ読んでいたんですが、ここから一気読みしてしまいました。
第二部の最初のページを読んだその時から、ミランダとリリーの因縁の対決が始まり、目まぐるしい殺人者同士の攻防戦へと発展していきます。

人生の宿敵

『そしてミランダを殺す』は章ごとに語り手が変わる構成で、これが読者を飽きさせず、予想できない殺人計画を展開させていきます。
第一部〜第三部、通して語り続けるリリー。
そして部毎に変わるもう一人の語り手。
何だかこの構成アイラ・レヴィンの「死の接吻」に似てない!?
一人称で視点と殺人計画が様相を全く変えてしまうところがね。
一番面白いのはやはり、リリーとミランダが章ごとに入れ替わり、本人たちもあずかり知らぬ頭脳戦がスリリングに描かれる第二部です。

二人は言わば人生における「天敵」「宿敵」です。
ごく稀にだと思いますが、世の中には、どういう訳か最初に出会った時からお互いに敵なってしまう、そう決められている人間がいます。
もうこれは理屈では全く説明できない真実です。
リリーとミランダは、お互いを抹殺せずにはいられない人間同士。
それは殆ど生存競争のようにも見えます。
貴方にもそういう人がいるんじゃないですか?

殺されても当然の人たち

この本の魅力の一つは、あらすじにサラっと書かれている部分、リリーが「対象を殺されて当然と断じ、殺人を正当化する独自の理論を展開」するところです。
原題は「The Kind Worth Killing」(殺すに値する種類の人たち、殺されて当然の人たち)、これはリリーが生きていく上での哲学なのです。

リリーは少女期の頃から、自分に害をなした人間を冷徹に殺して処理してきたことが、第一部を読み進めるにつれ判明していきます。
例えば、自分を裏切って元カノとヨリを戻していた大学時代の恋人もその対象です。第三部である登場人物が、

人っていうのは、大学時代にボーイフレンドを奪った相手を殺して歩くもんじゃないでしょ

と言い、全くその通りだなあとは思うのですが、リリーは絶対に許しません。

「そんなことで!?」と言う人もいるでしょうが、似たような経験がある人ならそこに少なからず共感してしまうのではないでしょうか。
「あいつ死ねばいいのに」とか「殺してやりたいくらい憎い」って生涯のうちに一度も感じない、考えもしない人なんていないと思うんです。
しかし、実際にそうするには、倫理観というハードルがあります。
そのハードルを超えたところにいるリリー、言わば女版「罪と罰」のラスコリニコフですね。彼も金貸婆を「殺されても当然の人間」と言っていたよね。

誰もが思ってはいるけれど、実際には出来ないことが、出来てしまう。
だからこそ、リリーは読者にとって頼もしくって魅力があるのです。
「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンはかっこよかったでしょ?

美しき君の倫理観

で、私はリリーがかなり好きです。
リリーは殺人以外で積極的に誰かを傷つけたり、利用することはありませんでした。誰かを裏切る人間と裏切った相手を殺す人間。
果たしてどちらがより正しく、より間違っていると言えるのか?
そんな考えも、語り手の視点のように揺れ動き回り続けます。

惜しむらくは何故慎重で肝の座ったリリーが、最後にあんな軽率な行動を取ったのか……ちょっとそこが弱いかな〜最後の殺人の処理の仕方も「え!?」って思うくらい雑な気がします。その時点で「さては最後アレのオマージュをやるな?」って予想できてしまったのが残念かな。

彼女は一言で言ってしまえばサイコパスなんでしょうけれど、自分の価値観が人とは相容れないことをよくわかっていて、孤独を感じています。

その彼女が初めて自分を晒け出せるかもしれなかった人間が、同じ殺人者になるはずだったテッドなのです。
じゃあ、テッドを失ったことが、彼女の孤独を深めて焦らせてしまったのか?
いや、彼女の言う通り将来的には「おそらくダメになっていた」と思うし、彼女の殺人哲学もやや場当たり的になってきていたのは否めません。

彼女を追うキンボール刑事がしょーがない趣味のせいで停職処分になるのちょっと気の毒なような、仕方ないような感じがします。この部分は吉田秋生の「吉祥天女」の叶小夜子を思い出しました。
小夜子は「あの人たち、想像の中で何度も私を犯したわよ、その想像は汚くないの?」と投げかけます。

彼の末路も「相手を心の中で軽んじることより人を殺す方が重いのか?」という疑問を具現化している気がします。相棒のジェイムズ刑事がとっても魅力的で素敵だからこそ、勿体ないことしてしまったな。

私は今のところは誰も殺さないで生きてくでしょうし、
こんな状況に陥りそうな雲行きもありません。

でも、リリーの哲学を美しく感じるのは、
私にもその片鱗があるからなのか、
ただの読者故に当事者ではない無責任さからなのか、

読んでしばらく経った今も、まだ分からないのです。



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