第16回 #呑みながら書きました 『 坂口安吾と中上健次 』の批評を書きました
『 坂口安吾と中上健次 』を読んだ感想を呑みながら書く。
本を読んだ感想を呑みながら書くとは、不謹慎ではと思われたかたもいらっしゃるでしょう。
坂口安吾という作家は、日本の作家のなかでも特異点も特異点、日本人の歴史認識の原点にして頂点、そして、摩訶不思議オブ摩訶不思議な作家だと思っている。
そんな考えても、おいかけても、肩にのっても姿かたちも見えないような坂口安吾について書くには、酒でも呑まなきゃ書けないわけで。
三島由紀夫が坂口安吾の文章をウォッカと評していたので、キンキンに冷凍しておいた透明なウォッカを呑みながら書いてみようと思う。
坂口安吾といえば野球観戦をしている昭和のオッサンのような服。整理整頓されておらず、タバコと灰皿、原稿と本などが散らかった部屋にて机から眼をはなし、ぎょろりと右上をながめるあの写真が小説やエッセイよりも有名かもしれない。
あの部屋は親友の檀一雄のお家の部屋を借りていたときの写真らしい。他人の家の部屋をあそこまでワガモノ賀雄で暮らすことができる、それも大作家になるために必要な精神なのかもしれない。ミノムシほどの精神のわたしもmならいたいものだ。
純文学から歴史小説、ミステリー小説、オチャラケタ小説まで膨大な数の小説を坂口安吾は書いている。そのなかで歴史小説やエッセイで書かれている信長や家康のイメージは、坂口安吾がかためたのではと思っている。そして、この本『 坂口安吾と中上健次 』これから、このnoteでは『 坂口安吾と中上健次 』をこの本と書く。にもsのようなことが書かれていた。いままでの頭のなかで考えていたことが、カチリとはまった。坂口安吾が書いた『 家康 』は、家康嫌いであれば必読の書である。中間管理職だ、なんだ、優柔不断な人間だ、凡庸でうん丸もらしだ(これは書いていない、わたしがつけたした)とりあえず痛快にあの家康をこきおろしている。
よい小説とは、読んだあと。ふいに手をとめた瞬間、お風呂につかった瞬間に小説の言葉やシーンが頭のなかに浮かびあがってくる小説がグッドな小説だと思っている。
わたしのなかでは、『 暗号 』『 街はふるさと 』などは、キーボードにて文字を入力しただけで、小説の一場面がうかびあがる。
坂口安吾といえば、『 堕落論 』がもっとも有名でしょう。わたしとしては『 不良少年とキリスト 』のほうが心にズシンを響いた。くいしばるほどの虫歯の痛みにくるしめられる呻き声のような慟哭にちかいエッセイに、心を撃たれ震えた。
『 堕落論 』は、はっきりいってむずかしい。堕落しろということではないと思うのだが、どこに堕落していけばよいのか、それがわからない。
坂口安吾を批評していた本をみかけなかった。この本にて『 堕落論 』の答えになりうる一文があった。
坂口安吾の地元新潟にて、タイトルのもうひとりの中上健次と筒井康隆さんが講演をおこったいる。そして、その講演がおわった夜におふたりは日本文藝家協会を抗議のために脱退している。おふたりが語った坂口安吾論を生で聴いてみたかった。
さて、その講演にて筒井康隆さんが、坂口安吾をハイデガーと評している。ハイデガーときいてみても、ダレデッカーとなるひとがおおいでしょう。20世紀もっとも影響をあたえた哲学書『 存在と時間 』を書いた哲学者であり、ナチスに加担したことでも賛否両論があるハイデガーだと筒井康隆さんは坂口安吾を票している。筒井康隆さんは、ハイデガー好き。なので、そのような評価になったのではと思うが、ハイデガーの訴えるところの現在をこえ、死にむかい、その死を超えた素晴らしいところを目指せ(わたしがハイデガーの主張をテキトウに雑にまとめた)。
人間が目指すべき死を超えたところが、坂口安吾の語るところの堕落なのでは、と思ったが、思っただけで納得も理解もできてない。だいたいにして頭のカシコなハイデガーや坂口安吾、筒井康隆さんたちが、人間とはなんぞやを考え、考え、たどりつけなかった問題にわたしなんぞがたどりつけるもんか。
坂口安吾は、人間の苦しみや幸せなどを超越するにはどうすればよいか、仏教を学び、学びつづけ、ひたすら学びつづけ、頭がおかしくなったと書かれている。根がまじめすぎて、やさしすぎて、人間にはどこか救いがあると思っていた坂口安吾。その救いを仏教にもとめた、もとめつづけたゆえに壊れた。安吾という言葉も仏教用語からきている。
やさしさと破壊的な二面性はここからきているのではと。そして、頭がこわれたあと、坂口安吾は、フランス語をひたすらに勉強し頭のなかを組みたてなおす。小説家たるもの、日本語だけでなく、第二言語や第三言語ぐらいまでマスターしている、すこしまえの文豪たちの頭はどうなっていうrんだ。
『 堕落論 』は、過去と現在、未来の日本人を批判するだけでなく、ひとのやさしさや未来を信じた安吾。破壊性に溺れながらも、日本人をどこか素晴らしいところに導こうとして書いた哲学書なのかもしれない。
この本を読み、『 堕落論 』をしっかりと読みかえそうと思った。よい小説とは、読みおわったあとにドコカで心に文章や場面が浮かびあがってくる小説がよい小説だと書いた。
よい批評とは、読んだあとに批評している本を読んでみたり、手にとってみたり、読みかえしてみたりなるような批評がよい批評だと思う。そういう意味では『 坂口安吾と中上健次 』は、よい批評本だと言える。
紹介してきた坂口安吾の小説とエッセイは、青空文庫で無料で読める。無料で、フリーで読めますゾ。
さて、そろそろ呑みすぎたので、筆を置こうと思います。
「え?中上健次のことを書いてないじゃないか?」
開高健が中上健次の文章を評して、バッタを捕まえるためにブルドーザーにて土をひっくりかえす文章と言っていたインタビューを読んだ。そして、開高健の弔辞にて、司馬遼太郎が開高健の文章をバッタを捕まえるためにブルドーザーをとおなじような言葉を読んでいたと思う。
中上健次の小説は2~3作しか読んでおらず、密集した狭い地域にて、熱き鉄血をたぎらしながらも冷ややかに死んでいく。すべての運命をうけいれながら狂いもせず、あきらめもしない。救いがなさそうで、救いがあるような、ドロドロと濃くもあり、さらさらと流れる清流のような清潔さもあり、批評しにくい。
なので、この本を手にとり中上健次をわかってもらえればと思う、この本は、坂口安吾より中上健次にページ数がとられているので、わたしは坂口安吾についておおく書いた、ということにしておこう。
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