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苦労したからこそ通じ合えた僕らの唯一無二の人生

僕がまだ中学一年生の頃、とある日の午後の出来事だった。
授業を受けていると、血相を変えた他のクラスの先生が、教室の中に入ってきた。

「岩田くん、すぐに荷物をまとめて、職員室に来てくれる?」

呼ばれた岩田は「え、オレ何かしたかな?」と周りにいたクラスメイトとヘラヘラ笑いながらバッグに教科書や勉強用具を詰め込んで、先生に付いて教室を後にした。
僕はなんとなく、先生の様子からただならぬ雰囲気を感じ取って、他のクラスメイトみたいに笑えなかった。

それから数日間、岩田は学校に来なかった。

後日、担任から岩田の父親がくも膜下出血で倒れたという話をホームルームで聞かされた。
一命は取り留めたけれど、身体に麻痺が残ってしまい、しゃべることもできないと言う。

ホームルームが終わったあと、部活の顧問でもあった担任に僕は個別で呼び出されて、登校できるようになったとしても、しばらく部活には来れないだろうという話をされた。
僕と岩田は同じ部活に入っていたのだ。
優しく接してあげて欲しい、と強く念押しもされた。

僕と岩田は、通っていた小学校が同じで、一緒のサッカークラブに入っていた。
それで同じ中学に進学して、同じサッカー部に入った。

よく行動を共にしていたけれど、よく喧嘩もするような仲だった。
岩田は運動神経抜群で、人当たりが良く、教室でも賑やかなタイプ。
一方の僕は運動神経が悪くて、要領が悪いし、人付き合いもあまり上手くなかった。

対照的なタイプだった僕らは、出会ったばかりの頃は幼過ぎたからどちらの方が上とかそういう発想にはならなかったけれど、年齢を重ねるにつれて少し上下関係が出てきた。
岩田は僕のことを少し見下すような態度をとることがあったし、僕は負けずと攻撃的な発言や態度を取って、岩田のことを意図的にイラつかせた。

一緒にはいるけれど、仲が良いのか、悪いのかわからない。
そんな2人の危なっかしい関係は、岩田のお父さんが倒れたことで、大きく変わることとなった。

家が少し落ち着いて、登校するようになった岩田は、案外早くに部活へ復帰した。
学校で以前と変わらず明るく振る舞う岩田を見て少し驚くとともに、話すのに少し緊張したのを覚えている。
前みたいに攻撃的なことを言って傷付けないように、当たり障りのない話をした。
たとえば好きなサッカーチームが違うせいでムキになって喧嘩することがあったけれど、そういう話は絶対しないようにした。

元気そうにしている岩田の中には、辛さが見える瞬間もあった。
僕はできるだけ辛さを忘れられるような時間を作れないかとも思った。

当時知り合いから国立競技場で行われるサッカーの試合のチケットをもらう機会があって、そのたびに僕は岩田を誘った。
多い時はひと月に何回も、岩田と千駄ヶ谷に足を運んだ。
地元の駅で待ち合わせて、サッカーを見ながらカップラーメンを食べて、地元の駅に帰る。
2人で、なんでもないような、ゆるやかな話をずっとしていた。

ゆるやかになった2人の関係は、ずっと続いた。

部活を引退してから高校受験のために通い始めた学習塾も同じだったし、卒業式の後も春休みもよく一緒に過ごした。

高校は別々になったけれど、たまに連絡を取り合ってサッカーを観に行ったり、近所の図書館で試験勉強をしたりした。
お互いの新しい場所での出来事を共有して、すこし昔話をしながら、新しい思い出を作った。
気付けば、気が置けない友人になっていた。

その時点でだいぶ仲が良かったけれど、またグッと距離が近づいたのが、高校卒業のタイミングだ。
僕は現役で大学に受かったけれど、岩田は滑り止めも失敗して浪人することになった。
お父さんが倒れてから家計が苦しくなっていた岩田は、宅浪するらしい。

その話を聞かされた僕は、近所のブックオフに岩田を連れて行き、オススメの参考書をできるだけ安い価格で買わせた。

それまではお互いちょっと格好つけているところがあったけれど、岩田の受験失敗は、今まで踏み込まなかった話もするようになるトリガーだった。
その頃から、岩田は僕に家で介護しているお父さんの話を、たまにしてくるようになった。

岩田はなんとか二浪を回避して、僕に一年遅れて大学生になった。
お互い遊び歩いていた僕らは、それぞれのコミュニティでの飲み会が終わった夜中に、サクッと会うことがちょこちょこあった。

終電の終わった最寄駅のちょっとしたスペースの地べたに座って、コンビニで買った缶ビールを開けた。

どうしようもない話が大半だったけれど、僕の就活が近づいてきた頃、真面目な話をする機会が増えた。

ある日、大手で安定したルートか、ベンチャーで刺激的なルートが良いか、そんな話になった時のことだった。
岩田の口から本音が溢れた。

「まあ、人生を保証してくれるものなんて、この世に何もないからなあ。何が起こるかわからないよ」

その言葉に、お父さんが倒れたことが含まれている気がした。
それまでは岩田が話したい時に、何も言わずに聞いてあげようと思っていたけれど、その時僕からはじめて質問した。


「お父さん、最近どうなの?」

「何も変わらないよ、お母さんが介護してる」

「そっか。急だったもんな」

「うん、本当に。今も先生に呼ばれた日のこと思い出すし。ってか、太とかみんなにかなり気を遣わせたよね」


笑いながら言う岩田に、そんなことないよと答える。
すると、岩田は意を決したように僕に質問してきた。


「あの頃さ、太も何かあったでしょ?」


中学一年生は、僕も大きく家庭環境が変わったタイミングだった。
両親が離婚して、少しバタバタした。
母が女手一つになって気を張っていて、僕もつられて気が張っていた時期だった。


「不安そうにしていて落ち着きがなかったし、何かあったのかなって思ってたよ」


僕は岩田のことを励まそうと思って色々考えていたけれど、岩田は僕のことを心配してくれていたのか。
とても驚いた。

誰もわかってくれる人なんていない、そんな風に思っていた時期に、ちゃんと見てくれていた友だちがいた。
その事実は、なんだか嬉しかったし、少し恥ずかしかった。

その日は、少し興奮していろんなことを思い出してしまって、別れて家に帰ってからも眠りにつくのに時間がかかった。
岩田との関係は、更に強いものになった。

社会人になってからも、岩田とは相変わらず付き合いを続けている。
何も用がなくても、定期的に連絡を取り合うような友だちであり、三十路にもなると貴重な存在になってきた。

つい先日も、仕事の話になった。
最近あった良いことや悪いことを、思いつくままに適当にシェアをしていると、いきなりこんなメッセージが来た。


「責任感が強すぎる節があるよな、太は。意外とサッカーもサボらないで走る系だし。おれはサボってごまかす系だからね。もっと気楽にやれよー」


少し大事な仕事が続いて気張っていた僕に対して、ギョッとするくらい的を射たメッセージだった。
LINEしてるだけでも分かられてしまうのは、岩田がよく見ているのか、僕が分かり易すぎるのか。
まあ、どっちでも良いけれど。

中学一年生の時は、岩田も僕も、いや僕の比にならないくらいに岩田はかなりの苦労をした。

人生ではじめての苦労だったかもしれないし、自分の意思や思いだけではどうにもならないことに直面したタイミングだったのかもしれない。
2人が体験した出来事は、人によっては経験しないことだし、どんな気持ちになるかもわからないことだろう。

でも、僕らはそれを経験した。
経験して、それでも何とか生きていこうと思いながら、相手のことを考えた。
そして、これだけ通じ合えるようになった。

苦労した経験と同じように、そこまで深く通じ合える友だちに出会うという経験も、生きている人全員が味わえる訳ではないだろう。

僕が今の人生を悪くない、いや唯一無二で変え難いものだと思えているのは、岩田のお陰なんじゃないかと思っている。


Bell / androp

<太・プロフィール> Twitterアカウント:@futoshi_oli
▽東京生まれ東京育ち。
▽小学校から高校まで公立育ち、サッカーをしながら平凡に過ごす。
▽文学好きの両親の影響で小説を読み漁り、大学時代はライブハウスや映画館で多くの時間を過ごす。
▽新卒時代の地方勤務、ベンチャー企業への転職失敗、制作会社での激務などを経験。
▽週末に横浜F・マリノスの試合を観に行くことが生きがい。

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