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下高井戸での違和感は私のアラーム?

声が大きいなと思った。
下高井戸駅の本屋で待っていると、吉田くんが若干の汗を滲ませながら「遅くなりました」とはにかんだ。時間に遅れたことは本当にどうでもよかったものの、なぜこんなにも本屋で声が大きいのだろうと少しひっかかった。

それから下高井戸駅の周りを散策して、カレー屋さんへ行く。クラフトビールを飲みながら、仕事やジェンダーのことに話が進む。同じソースから情報を得ていることや、大切にしたい考え方が似ていることがあいまって、話は滞りなく流れていった。喫茶店に移ってからも話は止まらず、久しぶりにコーヒーをおかわりして話し続けた。

話し終えて外に出ると、雨が降ったのか蒸し暑い。6月の終わりらしい夕方だった。

その日を境に、私は吉田くんとの距離がグッと縮まったなと感じた。なぜなら、自分が生活をしている中で大切にしたいと思っていた社会への目の向け方やジェンダーに関することを共有できたからだ。だから、SNSで彼が呟いている時には、これまでよりも「会って話そうぜ」というアクションをとった。


しかし、彼からくる返事は基本的にやんわりとした拒否だった。仕事が忙しいということは仕方ないのだが、「人に会う精神的な体力がない」という趣旨のことを言われ、わかると思う反面、自分に会うと疲れるのだなあとはっきりと自覚して傷ついた。

それからというものの、吉田くんはなんだか疲れているのだなと思う投稿が増えた。日々の生活の中に潜む悪意に敏感に気付いてしまったり、人から言われた言葉が尖って見えることがあるようで、それは優しい彼だからこそなのだと思う。

だけど、そんな彼が「自分の価値観や時間を大切にしたい」という言葉を発し、私からの誘いをやんわりと断ってくる度に、それは息が合っていたはずの私も、吉田くんにとっては負担や疲れになるものに分類されていたのだと感じるトリガーとなり、私にとってはしんどいものだった。彼の繊細で柔らかい部分には応えてあげられなかったのだろうなと。

そして、たとえば本屋で大きな声で話しかけられた時に感じた違和感みたいなものは私から吉田くんに伝える機会もなく、吉田くんにジャッジされて離れられてしまったと感じる。対等な人間関係は大切って話をした相手にも、決して対等な関係を構築してもらえなかったのかと、なぜか裏切りを感じてしまうのは私の考えすぎてしまう性格ゆえなのかしら。



最近、自分を大切にしようという風潮が強い。この流れは私は好きだ。

一方で、私はこの考え方を当たり前のことすぎて何を今更言ってるのだろうと思う。

これまで家父長制をはじめ、いろいろなところで無視されていた存在や権利にいろいろな人が気付き、その気付きを世の中がシェアするようになったということだと思う。

しかし、気付きを得ているのはあくまでマジョリティ側の目線だ。マイノリティにとっては、ずーーーっと無視されていたものが認知されただけなのだから、別に何も変わっていないし、変えていない。私は、個人を大切にするって価値観に気付かなかった方が悪いでしょ、ってくらいに思っている。

吉田くんも自分を大切にしようって言っている。でも、吉田くんもマジョリティ側にいて、そこから認識を改めただけなのである。私は自分を大切にするという前提に立って吉田くんと会っていたから、急に自分を大切にしはじめた吉田くんに拒絶されても正直困る。キャパが元々なかったのに、仲良いふりして、やっぱり時間がない、しんどいなんて言わないでくれよ。


私は丁寧なコミュニケーションをタフにし続ける人でありたい。それは自分を大切にして、その上で周りを大切に生きることでしか達成しないと思っている。

そしてそれは、たとえ揉めたり、不快なことがあった時に話し合いを続けることなんだと思う。最終的にあまり連絡を取り合わなくなってもいい。自分たちで納得して、合わなかったねって笑えるくらいまでになりたい。それがどんなに時間がかかっても、死ぬ時に気づくくらいでもいいと思っている。

余裕がなくてもいい、自分の時間を大切にしてもいい。だけどマジョリティ側から"降りてきた"という姿勢のまま、私の連絡をあしらい続けるのはやめてくれよ。

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