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小学生の詩

週に1度、学習支援のボランティアで小学校の授業サポートに入っている。
今日は、詩の創作をする2年生の国語に入った。

いろんな子がいろんな詩を書いている。
ひとつひとつの作品から、その子の生きている実感みたいなものが、ギラギラあふれ出している。

この詩は、教室の後ろに掲示される。それは多分、学期末に持って帰って、おうちの押し入れに入る。押し入れの詩が果たしていつまで存在できるかは分からないが、そこでずっと眠っていてほしいなと思う。そうして10年後くらいに親と一緒に見返して、恥ずかしい!でも意外と上手だわ!と笑いあう。
この詩は、彼ら彼女らの人生の一部として残っていくのだ。
詩に書いた感動を新鮮に心に抱えている時間を、それを紙に書き綴った瞬間を、偶然私が共有できたことは奇跡だ。何気ないけれど、これだけ素敵なことが日々の中に隠れている。


特に、いい!これは好きだ!と震えたのが、本を読む面白さをつづった作品だ。短い詩だからかなりはっきり覚えているが、彼の作品を自分が利用するのは失礼なのでやめる。
彼の詩は、誰にも見せない日記にそっと記しておいた。
彼の詩が、私の人生の一部として残っていく。

引用せずに魅力を語るのは難しい。ただ、本を読むことが純粋に楽しくて面白くて仕方ない、という気持ちが、無駄な装飾のない言葉とまっすぐな筆跡をもって、胸に迫ってきた。同じく本の偉大さを実感する者として、深く共感した。なぜか泣きそうになるほど。


技巧を凝らそうとか思わず、
見たものをそのまま、いいと思ったものを素直に表現する。
それだけで、こんなに伝わるものなんだと、気づかされた。

文章、特にこういうnoteみたいな場でエッセイを書く目的は、伝えること、にあると思っている。自分が見たもの、聞いたもの、感じたこと、確かにあるけど捉えがたいもの、を、同じ時を生きる他者や未来の自分に伝える。

正確に伝えたいという思いが強いあまり、ありきたりの表現ではこぼれ落ちるものがある気がして、言葉の組み合わせを工夫したり、比喩を使ってみたり、いろいろやってみた。どこまで行ってもしっくりくる表現が見つけられなくて、自分の語彙力やセンスの無さを突き付けられて、あーもういいや!と投げ出すことも多い。それはそれで必要なことだと思う。
けれども、正確な言葉を探さずとも、伝わるものは伝わる。
逆に、どんなに正確な言葉が見つかっても、伝わらないものは伝わらないんだろう。

まずは素直に、シンプルに。言葉遊びもたまにやってみよう。
そうやって文章を書いて、伝えることを楽しもう、と思った。

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