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Old Soldier の複業探訪(9)

時間になってZoomを起動すると、いかにも聡明そうな、小ざっぱりした青年が現われた。テレワークの合間のインタビュー。普段なら無精髭のうえ、ジャージにフリースの部屋着姿の私だが、今朝はちゃんと髭を剃り、BDシャツに袖を通した。カメラには上半身しか写らない筈だが、万が一、立ち上がってしまう事を考えて、ボトムはブルージーンズにした。

画面の隅に映し出された自身の姿に一安心しながら、先手を切って話始める。先ずはこの青年の「思い込み」を解かねばならない。質問書によると、方程式の解法を求めて学術書を紐解いたらしく、数ある解法の中から、最適なものを選びたいとある。しかし、そもそもこれが「思い込み」なのである。Inverse-Kinematicsは、幾何学にとって恰好の題材である。なので、古来より数多の数学者がこれに挑んだのであろうが、彼ら数学者の興味の対象は一般解、即ち、3次元空間座標に対してN自由度のロボットアームを如何に適切に動かすかと云う事だろう。しかし、一般解があれば特解があるのが数学の世界。商業ベースのロボットにおいては、一般解の解法は用いず、特解でこれが解けるようにロボットの構造の方を設計してしまうのである。
私がこの仕事をしていた頃のCPUの能力は、現在PCに使われているプロセッサの数千分の一である。有効数字の範囲内で誤差が残らないレベルまで繰り返し演算する事など、到底できない相談だったので、特解によって一発で解けるようにロボットの側を合わせ込むのである。

準備しておいた回答書を元に、特解が使える構造上の条件の説明から始めたが、彼のロボットの構造を見せてもらうと、幸いこの条件を満足するものだった。であれば、話は早い。一旦、Inverse-Kinematicsから外れてユークリッド幾何学、つまり、同次変換を使ってロボットの位置と姿勢を自由度に冗長性が生じないカタチで分離する方法を解説する。特解のポイントを説明する為に自分の体をロボットに見立て、椅子を回転させてロボットの動きを真似てみせると、画面の中でかの青年が微笑んでいるのが見える。続いて「姿勢」の概念。「右手の法則」よろしく、親指、人差し指、中指で3次元座標軸を作り、これをくるくると回して「姿勢」の概念を説明すると、青年も慣れぬ手付きでYaw、Pitch、Rollと真似をする。そう云えば現役の頃、先輩諸兄の中でもこの概念が理解できている人はほとんどおらず、新人の私が右手をひらひらさせて説明すると、同じように真似をしては首をひねる姿を見るのが痛快だった。

数十年前の事とは云え、全力で打ち込んだ仕事である。説明を続けるにしたがって数式と解法の記憶は驚くほど鮮やかによみがえり、まるで自分が若返ったような気さえした。そして、彼のロボットの解法が概ね明らかになったところで、約束の時間となった。
Inverse-Kinematicsは「基本のき」。この先の開発方針を聞いてみると、やはり、かなり危なっかしいものだった。まだまだ教えてやれる事はたくさんあるなと思っていたところ、青年の方からも「この先、なにかあれば是非」との一言。この関係がしばらく続けば良いな、との期待を込めて快諾し、初めてのスポットコンサルを終えた。

Zoomを閉じ、個人用のPCをシャットダウンして本業に戻ったところで、強烈な眠気に襲われた。たった1時間のインタビューとは云え、週末のドライブを兼ねた「復習」と、回答書の準備、そして、インタビューの間、青年の質問に淀みなく答える為に必要な集中力。想像以上に気疲れしていたのであろう。初めての複業を無事終えた喜びと開放感に浸りながら、その日は早めに床に就いた私だったが、その翌朝、午前3時に目が覚めた。そう、話はこれで終わらなかったのだ。(続きは次回に)

ここまでお読み頂いて、ありがとうございました。
このとおり、老兵の複業探訪を不定期で、時折、世相に対する世迷い事を織り交ぜながら発信して参ります。

どうぞ、よろしくお願い致します。


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