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音楽についての文章に何の価値があるのか(軽め)

音楽について書かれた文章が好きだ。
音楽に限らず、映画でも小説でも、何かしらの作品について書き出された文章を読むのが楽しい。

そういった文章を読まない、あまり価値を感じない人も多いかもしれない。だけど自分は作品に寄せられた文章に価値を強く感じている。そこには単純に面白さと学びがある。そんなことを書き出したくなった。

でもこんなテーマは手に余りすぎる。書ききれるわけがないし知識もない。だから単純に経験談を書きだそうと思う。価値を証明するのではなく、「こういう学びありました!」って記録だ。いつにもまして脈絡に欠ける記事だけども、軽め・ゆるめに小並感として見守ってほしい。



音楽についての文章を初めて意識した時?

そもそも、音楽についての文章を意識したキッカケ……この記事を読んでいる方はなんだろうか?rockinonのような雑誌。CDについていた帯やPOP。好きなバンドを検索したら出てきたブログ記事……いろいろあると思う。自分の場合、思い返すとそれは"Mr. Childrenのベスト盤"だった。中学生のころ音楽に興味を持ちはじめ、とりあえず家にあるCDを漁って見つけた、通称『肉』『骨』盤である。

リアルタイムで活動中のバンドには珍しく、この盤には「ライナーノーツ」(解説)が添えられていた

当時は楽曲にしか興味はなかったのでそんな冊子に関心はなかったが、ある日、何とはなしにその解説を読んでみた。そこにはバンドの歴史、この曲はどこで録音した、タイアップはこれだった・何百万枚売り上げた※1、メンバーにはこういう思いが……といった記載があった。

まぁそういう情報は「へぇ~」と適当に読み流していたのだが、ある文章が引っかかった。

それはアルバム曲『ALIVE』についての記述だ。ミスチルもとい桜井和寿が重く病んでいた頃、『深海』の次作――ストレスをぶちまけるように攻撃的だった『BOLERO』の収録曲。

まず、この曲が嫌いだった。それは音楽聴きたてにありがちな、"特に深い理由もない嫌い"だったんだけども。なんか暗いし、不気味だし、聴いててテンションが上がらない。「流れてきたらスキップする」曲だったわけだ。

そんな『ALIVE』にはこんな記述があった。

「響くことを自ら拒絶するようなコードの鳴りから始まり、徐々にサビに向かって、すこしづつ光が差して来るように広がっていく」

この文章をみて曲を聴き、印象が変わった。

どうしてか。
伝わりづらいと思うのでもう少し丁寧に書きだそう。


文章から得た(知った)もの

1. 自分の中にない解釈・視点を得た

まず、「なんか暗い」って自分の適当な印象が、「響くことを自ら拒絶するようなコードの鳴り」と言い換えられていることに驚いた。何てことないようだけど、この言葉で"音"に意味が与えられて、聴こえ方が変わった。「なんか暗い」には、無機質・殺伐みたいな表現上の意味や解釈があったのかと驚かされたのである。

音楽聴きたてのころはストライクゾーンがとにかく狭くて、直感的な好き・嫌いが全ての判断基準になっていた。こういう文章を読むことで捉え方や価値観が広がって、好きになれるものが増えていくった。

今あらためて聴くと素晴らしい曲だと思う。曲想は手塚治虫の『ブッダ』に影響をうけたらしいが、そんな無常観がインダストリアルに影響をうけた打ち込みと合わさって、見事に表現されている。歌いっぷりは『Zooropa』(曲)あたりのボノみたいだし、"インダストリアルU2"とか言えそうだ。こうした形容でまた誰かの聴こえ方や視点も変わるかもしれない。


2. 自分は思ったより適当に音楽を聴いていた

次に、自分がいかに適当に曲を聴いているかも知った。『ALIVE』は、最後まで聴けばわかるが暗いOPからEDにかけて光を取り戻すドラマチックな曲である。気づいた今では驚くことに、そんな構成だって印象自体がなかった。普通に聴けば分かることもちゃんと聴けていなかった。

それは単に聴きこみの問題もあるが、引っかかりを感じられていなかったのも大きな理由じゃないだろうか。聴いた音楽に「印象を抱く」にはまず自分の中に受け皿が必要なんだと思う。だからこそ時を経て再訪する面白さが音楽にはある。ここは改めて別記事におこしたい。

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ここで1. 2. をいったんまとめよう。
文章を読むことで「他人の視点」、つまり「自分の外」を学んだ訳だ。それが一番大きな経験だった。他の人の聴き方・解釈を知ることで、そのぶん視界が広がり、ひるがえって聴き方を見直すことにもつながった――これが原体験だった。


ここからはMr. Childrenを離れて、「文章から得た・知ったもの」をさらに書き出していこう。


3. 「誰か」がいる

この「誰か」は2ついる。

■まず「クレジットに出てくる人や関連ミュージシャン」だ
別の盤だが、NUMBER GIRLの『SAPPUKEI』というアルバムにもライナーノーツがついていたのだ。本作は、ミスチル→スピッツ→バンプ→アジカンと聴いてった耳には「!?」しかない強烈な音で幕を開ける

ライナーノーツはその衝撃に「DAVE FRIDMANN」というクレジット、Flaming Lipsなどの関連バンドを挙げてくれていた。辿るための作品外キーワードがあったのである。単に「ヤベェ」と自分の中で感じて終わるのでなく、「コイツら」→「ヤベェ」という源泉を書き出してくれていたのだ。

その作品のクレジットや影響をうけた関連作、ルーツに目が向くようになることは、音楽を掘るうえで大事な第一歩だ。「自分が好きなもの」から、「自分が好きなもの(人)が好きなもの」への世界の拡張。そのキッカケに、その入口に文章があった。

■もうひとつは「音楽を掘ってるひとたち」
いろいろ聴いていくと、ふつう日常会話に出ないような音楽も好きになる。SNSが浸透した今では想像しづらいが、そうなると生活の中で「語りあう」機会が失われてしまうのだ。

マイナー聴いてるオレって異端?という話をしたいのではない。書きたいのは、そんな音楽についても検索したら「しっかり聴いて、熱く語っているサイト(ひと)がいた」ことだ。そんな「誰か」が沢山いることを知れた。井の中を出て大海を知る。そして見えた大海の景色に心から感動した。「自分以外の誰かもこんなに熱くなっている」。これは文章で起こすと安っぽいけれど、本当に嬉しい、自分ももっとやろうって思える、元気が出ることなのだ。

すこし思い出話をすると、自分は音楽を聴いた後に検索することで、その書き手たる「見知らぬ誰か」と対話していた……つもりだった。別にコメントを残していたわけではない。ただ、「誰か」の文章を読みこむことと、取り上げられていた作品を実際に手にして聴くことは、自分にとって「返答」だった※3。それはきっと確かに「コミュニケーション」だった。個人的に一番思い出深いサイトが下の「GRUNGE ALTERNATIVE」である。


4. 「今」を残せる

そしてじきに、「検索してもヒットしないものがある」ことも意識するようになった。無いものは無い。そして無いものは書かないと無いままだ。これは「後に残らないものがあると知った」が正しいかもしれない。曲やアルバムは音として残り、聴くだけで伝わる・繋がるものは無限にある。でも、すこしの飛躍と誇張をもって言うなら、後世に残る・認知されるには「作品」以上に「文章」が必要だと強く感じている。

いちばん生モノなのがリアルタイムの感想だ。それは例えば、フィッシュマンズが『空中キャンプ』を発表する前に投稿されたレビューとか※4。あるいは、中高生時代に見えていた、教室という名のシーンに空気として浮かんでいた人気ミュージシャンやヒットチャートの景色だとか。………BUMPとアジカン、RADの3者の微妙だが決定的な世代差。YUI、BLEACH/NARUTO等アニメ主題歌、Aqua Timez、UVERworld、着メロ/着うた……。

「当時」の空気感や景色、文脈や青写真は音や映像だけでは残りきらない。だからリアルタイムを封じた文章はミッシングリンクとして本当に価値があると思う。

当たり前のことだけど、「今」には常に書き留める価値がある

それは過ぎさった「今」、つまり「過去(当時)」を書きだすことも同じだ。音楽書籍として名著とされる『ブラック・マシン・ミュージック』や『DUB論』は正しくそうした営為だ。ここには、当時の空気感・方法論・技術・スタイル・思想が、確かな息遣いをもって浮かび上がっている。感じられるし、残っていて、今から過去を辿ることが出来る。

そして翻って、「今」は人それぞれにある。個人的な探訪録がそうだ。ある人生を歩んでいるあなたが今ハマっていること。どういう足取りでもって辿り着き、どうしてハマったんだろうか?需要なんて気にしなくていい。残してくれたら嬉しい。

つまりだ。
何が言いたいかといえば、人が何かしらを思って書き出した文章にはすべて価値が宿りうる。と、そう全肯定したいのだ。

進行形のシーンを追った記事も。過去を辿った調査記録も、個人的な日記のような探訪録も。書きだして残そうとする行為そのものを、自分は未来の読者として全肯定して賞賛したい。

だから自分もブログを始めて感想記事を打っている。自分の文章に価値があるかはわからない。だけど、文章として残す行為自体にきっと価値があるから※5。


結び

あらためて、作品もとい音楽について書かれた文章が好きだ。

スピッツの『おっぱい』を聴いて「黒歴史www下ネタwww」とゲラゲラ笑っていた中学生は、草野マサムネという男の曲がりくねった性表現と人生観についての文章を読むことで、自分の想像力を超えたその深淵を知り(1. 自分の中にない解釈・視点を得た)、いかにテキトーな解釈をしていたか理解するだろう(2. 自分は思ったより適当に音楽を聴いていた)。そうした記事を読みこむ内に、『おっぱい』が「限りない純真、至上の愛」を歌ったものだと熱弁する記事を書き残そうとするかもしれない(3. 「誰か」がいる)。そして5年10年後にその記事を読んだ人が、違う文脈でもってまた同じ沼にハマる(4. 「今」を残せる)……かも。

文章を読むことは、そんな進化(?)や変化、伝染を促すのだ。それが良い変化かはわからないが、狭苦しい自己完結で作品≒他人にふれるよりは、きっと誠実な姿勢が得られるだろう。

なんだか「読書はいいぞ」みたいな締めだが、まぁそんな感じだ。
みんなも読んで、そして、書きだそう。



ここからはオマケ。書ききれなかったものとして、前1-4とゆるく対応するようなQ1-4を下においておく。いつか個別で記事にしたい。

補記:音楽についての文章で考えたいこと

Q1. 作品に対する視線(自己解釈と技術)

『ALIVE』で引いた「響くことを自ら拒絶するような……」というフレーズ。個人的にはこうした作品形容がとても好きだ。粋なコピーや形容にはワクワクするし、好きな曲の魅力が見事に言い当てられていると、不思議と「嬉しい」に近い感情すら湧いてくる(自分の音楽感想文に「~のような」が頻出するのはこれが理由だ)。ただ、そうした形容に苦い顔をする方もいるだろう。必要以上に大げさだったり文学的な形容は、元の作品をちゃんと見ていない、音楽そのものから離れている気もする。いっぽうで「理論的に〇〇で」といった記述に苦虫を嚙みつぶす人もいる。

この乖離は多分、作品表現について2つの視点、自分がこう感じたという「自己解釈」と、ある種の定理として普遍的にある「技術理解」があることによるんだと思う。そして前者と後者の記述では、それぞれ読んで得られるものが違うだろう。解釈と技術――互いへの節度と礼節は必要だが、両方必ず網羅すべきものでもないはずだ。書き手・読み手はともに、どちらにに主眼を置いた文章なのかを踏まえておくのが良いと思う。


Q2. 名づけることで広がり、誤解を生む

「適当に音楽を聴いていた」って気づきの逆として、一般的に何となく"そう"だとされているが実は間違っていることも多いと気づかされる。割とかなり、そこら中で見かける。特にムーヴメント・シーン・ジャンルといった「名づけ」は、広がりと誤解、両方の可能性を必ず孕んでいる。分かりやすさのため切り捨てられたもの。曖昧な定義を各々がさらにテキトーに膨らませ、勝手に名付けられたものが謎のフィルターとして暴力的に創作物に被せられる、その結果のプラスマイナス。

「グランジ」「渋谷系」「東京インディー」といったワードはその最たる例だろう。こうした半ば乱暴な言葉で無造作に広がった地平を、丁寧に整地するのもまた文章の役割だと思う。ある種の「誤解」は創作の種だが、「知りたい」と思ったひとにはある程度正しい道が提示されるべきだ。整地を行うのは最終的にはメディアだろうが、その前に「それは違うだろ」と憤った個人の一歩じゃないだろうか。憤っていることは書きだそう。もちろんツイートでも良いと思うが、やはり残りやすい、芯を持って伝わりやすいのはブログなどの記事だ。


Q3. 佐々木敦『「批評」とは何か?』、加藤 典洋『言語表現法講義』

さて、ここまで書いたような感覚や視点で、自分は諸々の作品にふれている。そんな価値観にて、強い共感と示唆を得られたのが佐々木敦さんのこの本だった。もしこの記事に思うところがあったら、合わせて読んでみてほしい。

これも関連書籍に置きたい(2023/04追記)。「何かについて自分が思ったことを文章を書くこと」に関して記されている、個人的名著。特に個人ブログをなんとなく更新してる人に強くオススメしたい。本記事とはそこまで関連しないが、「7章 いまどきの文章」は名文である。


Q4. "良い"音楽記事って何だろう→続

この記事で「文章には価値がある」と伝えられただろうか。伝えられたことにしよう。じゃあ価値はあるとして、どういった文章がより価値を持つ、つまり"良い"のだろう?

まったりといつか次回に続く。



引用・注釈など

※1. 感謝はあるがツッコミ所も多く、特に売上の数字は信頼性に欠けるので注意。

※2. ここで注釈しても遅いが、筆者は年代と好み的に記事中の例えがイマイチ古い。適宜読み替えてほしい。ここで注釈してもマジですべてが遅いが。

※3. このくだりを書いてて「マジでコイツTwitter向きの存在だな」と思った。本当にしっくりくるSNSで助かる。突然BUCK-TICKに井上陽水にDUBにメタルに、ゲームに漫画に小説にハマろうが、適当なひとり言を気の向いた誰かが返してくれたり、反応がなくてもそれはそれで良いという距離感。

※4. 連載中の漫画の、XX話当時の読者の感想とかもすごく価値があるはずのものだと思っている。現状だとまとめサイトと個人サイトくらいにしか残っていないけど……。自分は完結後に『チェンソーマン』を読み始めたが、9巻からはあまりの展開に1話ごと当時の感想をネットで漁り衝撃を吸収していた。漫画は一気読みと連載読みで読書体験があきらかに違う。

※5. 別に書いたら残り続けるわけじゃなくて、アーカイブの話もする必要がある。ジオシティーズやYahoo!ブログが消滅したのは本当に損失だった。そして「文章として残す行為にはきっと価値がある」も注釈がつく。残さない方がいいことも、時々はある。……記事と関係ないが『ONE PIECE』にそういう話があるので気になったら読もう

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