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二律背反が共存する世界「ヌル庵」

こんにちは。
今回はメディアアーティスト落合陽一さんが主催する「ヌル庵:騒即是寂∽寂即是騒」に参加してきた感想を綴りたいと思います。

細かいレポートというよりは、その体験からの着想、というところでお伝えします。
3/17まで開催されているので、もし気になる方はぜひ実際に体験なさってほしいです。チケットがまだあるはず。

展示の詳細はこちら

それではおかゆワールドへ、ようこそ。


自然ってなんでしょうか

読者さんは「自然」という言葉にどんなイメージを持たれるだろうか。

私は「自然」と聞くと、
・自然体
・雄大な大自然(大かぶってる…)
・自然と○○した
など
「ありのまま」といったイメージが出てくる。

この時、1つの問いが湧いてきた。

「人間がつくったものは、人工物なのか?自然物なのか?」

自然という言葉を地球環境の文脈で使用すると、人間もまた自然の一部なのではないかと感じている。

では、人間活動によって生まれたものは、自然ではないのか?というと、自然の一部である人間が創り出したものは、それもまた「自然物」に含まれるのではないかと考えるようになった。

落合陽一氏が提唱するデジタルネイチャーについて、落合陽一氏が公開しているGPTs「OchyAI」にお聞きしたところ、以下のような回答が得られた。

デジタルネイチャーは、デジタル技術と自然界が融合した新しい自然観です。この考え方では、コンピュータやインターネットなどのデジタルの技術が、私たちの周りの自然環境や生活の中に溶け込んでいると考えます。例えば、スマートフォンやタブレットを使って植物の成長を管理したり、環境データを収集して自然現象をよりよく理解することができます。このようにデジタルネイチャーは、デジタル技術を活用して自然との新しい関係を築くことを目指しています。みなさんも、日常で使っているデジタルデバイスが、自然とどう関わっているかを考えてみると、デジタルネイチャーの世界を少し感じることができるかもしれません。

個人的な解釈であるが、デジタルと自然界を分けて考えがちであるが、これらは既に境界がなく混じり合い、相互作用し、共存しているものであるということだと私は捉えている。

今回のヌル庵も「静寂と喧騒」「デジタルと現実」「伝統文化と最新技術」の融合が起きていたように思う。

あの空間、もしくは落合陽一氏の脳内、表現したいことにおいては、これらは二律背反するものではなく、共存し、融合しているのではないかと思うのであった。

ルールはなんのためにあるのでしょうか

ややネタバレになるが今回の茶事体験に際し「ヌル庵の心得」が配られた。これも落合陽一氏によってつくられたものだ。

そのなかで
ルールの方が間違っている
という一文があった。

さて、ルールとは、なんであるか。

それはきっと、見た者によって連想することは異なるし、落合陽一氏もその自由度はアートとして観覧者側に任せる形で投げたのかもしれない。

ルール、ときくと恐らく
・秩序を守るためのもの
・堅苦しいもの
・全体最適のためのもの
など様々なイメージが浮かぶだろう。

その中でも、私は「誰かの意図によってつくられたもの」という言葉が浮かんだ。

善意か悪意か、あるいはその感情すら込められていないかもしれないが、誰か一人、もしくはそれに関わる多くの人の意見をまとめて、ルールという規則がつくられる。

それはある意味、そのルールをつくった時点での状況やその時点からみえる未来を見据えたものなのだろう。スナップショット、切り出しもののようにも思える。

ということは、時代の変化とともにルールを変えるということも、時には必要なのだろう。

どんなに考慮して未来を見据えたものであっても、全てをカバーできるルールというものは存在しないだろう。また、作成時点で全人類やあらゆる思想を網羅するルールも難しいであろう。

キミはルールをどう捉えるのか

落合氏が心得に記載した
ルールの方が間違っている
というのを私なりの解釈でいうと

・ルールは誰かの主観によってつくられたものであり、それを言葉通りに守ろうとしても、自分の主観が混じりすべてを汲めるわけではない

・ルールはコンテクストによって解釈が異なる。それを自ら見極める必要がある。

・ルールは守るためにあるものではない。判断の基準であり、そのルールの本質的な部分と自らが正しいと感じたことが一致するのならば、世間的に見ればルール違反に見えつつも、自身としては結果的には守ったことになるだろう。

更にここからの着想でいくと、
「自灯明法灯明」という仏教の言葉が出てくる。

お釈迦様のことを信望するのではなく、お釈迦様の教えを道標とするのだ。

つまりは「他者の考えを自分のものだと同一視して思考停止するのではなく、他者の言葉から自らが判断したことによって生きるのだ」

ということではなかろうか、と思う。

誰の言葉も信じるな、となると、相当に生きにくい。
それに今の世界ではあらゆる方面から情報をとってこれる。

だから、自分に響いた言葉を信じ、それを自分なりに噛み砕いてみる、というのが大事なのではないだろうか。

自灯明法灯明という言葉自体は、数千年前から伝わっているものだが、令和の時代の人も辿り着くのはここだと思うし、私自身も大切にしている信条である。


どこまでも、人は主観である。

私はジェットコースターのような人生を送っていて、至極穏やかなこともあれば、大嵐のように荒れ狂っていることもある。荒れている時は「なんで人と分かり合えないのだろう」と自分の主観に縛られている時である。

みんな違ってみんな良い、と思いつつ、他者に面と向かって否定されたり、突き放されると酷く動揺する(相手がそういうつもりがなくても、どういうつもりであったとしても)。

心が揺れるたびに、大嵐の中の自分の船はどんどんボロボロになっていく。回復のために行く着いた先の島の住人と対話したり、無人島に辿り着いて一人で孤独に蝕まれていることもある。

けれど、そういう出来事があるからこそ「この船の帆をもうちょっと補強しようかな」とか「最近コンパスの精度が鈍ってきたからメンテナンスしようかな」というきっかけになる。

基本的に自分のことは好きではないが「面白いやつだ」と思えた日には上機嫌で、明日もまた生きようとなる。人生はその繰り返しだと思う。

人生の迷いの中で、迷いそうなときに、誰かが提唱したルールがある。

そのルールを基準として自分の主観を見つめ直す。

そういった時間が、きっと必要なのだと思う。

落合氏が伝えたかった
「ルールの方が間違っている」
の真意は私にはわからないが、こういうことがこみ上げてきた。

ルールは一人一人にある

最後に。

茶事体験を一緒にした人との会話で

「ヌル庵の心得、掛け軸とかで飾ってくれてもよかったね」

という言葉が出た。
たしかに、と思いつつも

共通認識として一つの掛け軸を飾ってしまうと「皆で守るもの」という日本人の”調和意識"が強く働き、会社や学校といった組織を連想することで支配のニュアンスが生まれるため、一人一人に配ったのではないか。

とも思い浮かんだりした。(わからんけど)

集団として守りたい時は一つ掲げる物理的なモノがあるといいし

個々人に任せるのであれば、個々に渡し、そのオブジェクトと個人の相互作用によって新たな想いが生まれるのであろう。

人もまたオブジェクトである、というのが今回の展示のステートメントに含まれていたので、そんなところも繋がりそうだと思った。

広大な宇宙のちっぽけな存在の自分。

ただそこにいるだけでエネルギーを消費する自分。

なら、なにかを表現したり、伝えたり、生きた証を残すようなことをしたくなりませんかね?

その結果、誰かが笑ってくれたら嬉しいし、幸せを実感しませんかね。

それが
「喜びを共有しよう!感動できる!ありがとう」
なのだと私は思ってます。

私の生きる理由を思い出し、また勇気をもらいました。

素晴らしい体験の場を作ってくださった落合陽一さん、運営の皆様、なによりも今回誘ってくれた方に心より感謝を。

ありがとうございました。
ぼちぼち、明日も生きていきましょう。

お読みいただいた方も、ありがとうございました。
またお会いしましょう。

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