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長谷川等伯は私に圧をかけてくる

まだ27歳だったと思う。

ヒールで京都の街を一日中歩いても、帰りの電車に駆け込み乗車できた頃だ。

没後400年 特別展覧会『長谷川等伯』

毎日新聞からもらったチケットを持って京都七条へ向かった。

歴史を学ぶ大学を卒業したといっても、地理で卒論を書いた身の上であり、

歴史は嫌いだった……という人よりはちょっと知っているかな?程度の私は、長谷川等伯は「画家なんだろう」ってな具合だった。

国宝『松林図屏風』

長谷川等伯と言えばこの絵らしい。

「あそこにその絵があるんだろうなぁ…」とすぐわかるくらい、人だかりができている場所があった。

霧深い松林を描いたこの作品は、遠くに見える松を淡く、近くに見える松を濃く、何も描かれていない空白の部分を霧だと表現しているらしい。

『描かずして描く』ということに成功したと言われている。

そこにはただ墨の濃淡と空白のみ。

「へぇ~これが我が国を代表する安土桃山時代の水墨画なんや……」

何がすごくて国宝になったのか、さっぱりわからなかった。

そうは言っても日本の芸術に精通している方々がこれを絶賛し、国宝という二文字がお与えになった作品なのだから、

わからないなりにも自分の目に長い時間、ゆっくりと映しておこうと、とにかくじっと見つめておいた。

もう一つ、人だかりができていたのは

『涅槃図』

の部屋だった。

涅槃図とは釈迦が入滅する様子を描いたもの。

縦10メートルもの大きさで、この部屋にはこの作品一点だけ、

大学の時に博物館学芸員の資格を取った私には、この大きな絵をどうやって搬入し、どのように吊して展示しているんだろう、ということの方に興味が湧いていた。

解説を読むと、等伯は30歳の時に息子を亡くしてからこの絵を描き始めたらしい。

そして、この絵の裏には先祖供養のためにたくさんの先祖の名前が書いてある。

等伯はこの深い悲しみを大きな涅槃図に込めたんだろう。

そして、この世で一番悲しいのは自分よりも先に子どもを亡くすことなんだと、

子どもを先に亡くした人たちの悲しみを、みんな背負って描いたようにさえ感じた。

それは、400年後の世に生まれ、まだ子どもをもたないうら若き乙女にさえ、

等伯の胸の痛みが、私の全身の表皮にビリビリと、細かい振動によって圧が伝わってくるほどだった。


私の叔父は、25歳の若さで突然心臓が止まって死んでしまった。

当時の私はまだ13歳の子どもで、叔父を亡くした悲しみはあったが、残された祖父や母の気持ちまでは想像できないでいた。

しかし、この時、等伯の『涅槃図』を見て、祖父の悲しみが目の前に現れたような気がした。

溢れ出す涙を拭わずに、この世で一番悲しいことを「悲しい」とただただ受け止め続けた。


それから10年……

37歳の私は旅行記を出版することになり、既に3年以上も書き続けている。

あれもこれもちゃんと説明しておかないと自分の気持ちが伝わるのかと不安な気持ちに苛まれながら書く日々。

そんな時…

あの 国宝『松林図屏風』を思い出す。

『描かずして描く』

ということのすごさが、今の私にはわかる気がしている。

あれは自分に自信がなければできないことだ。

そして、絵を見る側の人も信用しなければ描けないはずだ。

そんな大きな気づきを、等伯は10年かけて私にゆっくりと教えてくれたのだ。

私は、うら若き乙女達に言いたい。

それらを見た時に、そのすごさをわからなくてもいいから、本物は出来るだけ多く見ておいた方がいい。

それは10年後の自分の心をそっと助けることになるかもしれないよ。

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