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「毎日会いたい」って思える人がいるってすごい。

お風呂が沸くまでの間に、ドラマを見ていたら好きな者同士が約束するでもなく毎日会っているのを見て「なんだかいいな」と思った。

私が最後に「毎日会いたい」って、他人に対して、それも好きな人に対して思ったのっていつだろう。

「毎日会いたい」という比喩

私の近年は、「毎日会いたいくらいの気持ち」という比喩止まりで、実際に毎日会おうと行動したことってないなと思った。

行動力はかなりある方だと思うのだけど、それでも会いに行かないのはやっぱり優先順位が低かったのだろう。

実際問題、体力的なものや忙しいのもあるのだろうけど、それでも毎日会っていたり、同棲したりしていた過去もあったわけで、その気持ちって一体いつどこに置いてきたのだろう。

なんだか、すこしばかり、寂しい気持ちがする。それはどこかで昔の自分と比較しているからなのかもしれない。周りと比較しているのかもしれない。

そこまで熱量をかけずに、だからこそほどほどの距離感の中で長く大切にできる自分と、短く深く花火のように夜空を彩っていたあの頃と、比較できるはずはないのに。

思い出はいつもきれいに装飾されるから、時々今の自分の身の丈以上のものを手に入れようとしてしまう。

ちゃんと同棲したのなんて、一番最初の交際の一回きり、それから後に同棲に至る交際はしたことがない。

というよりも、正直断ってきたのはいつも私の方だった。合鍵を渡すことも近年では全くなかった。

相手から一緒に住みたいと言われても自身の色々なことが未熟で、経済面もまだまだ不安定なのに、一緒に頑張っていく覚悟というものをその時の私は、持ち合わせてなかった。

自分なりの誠実さだったと思うけれど、寂しい思いをさせたことに変わりはない。

一緒に切磋琢磨しながら歩む道を選択することができなかったのは、私のせいもあるし、相手のせいもあるのだろう。

最後に一緒に暮らしたのは、シェアハウスをしていた仕事の仲間たちだったけど、恋人とするのとは訳が違う。

「同棲したいな」と思ったことはあるけれど、いつの間にか私は、人との距離がある方が心が落ち着くことに気付いてしまった。

長く付き合っても、やっぱり同じ家ではなくて、同じマンションや隣家にパートナーが住んでいたらいいなと思っている。それか家が5SLDKとかだったら良いけど、現実的じゃなさすぎる。ちょっと笑える。

どこかで、他人を自分のパーソナルなスペースに入れておけないと思ったのかな。昔はなんにも考えてなかったな~とも思うし、もっと感情的だったようにも思う。今が一番楽なことに変わりないのだけど。

家に人をあげるのも、最低限したくない。家に人がいるのが、どう考えても驚くほどストレスだ。土足で踏み荒らされる気分に勝手になってしまうのだろう。困った。

在宅ワークが増えて、毎日誰かに会うことって少なくなって、やっと少しずつ増えてきたけど、それでもやっぱり慣れない。他人は、疲れる。

みんなのことが公平に好きで、公平にきらい。


よく「人が好きなんだね」などと言われるけど、私はどうして人からそう見えるのだろう。

「人見知りだ」と言っても信じてもらえない。コミュニケーション能力は確かに低くないと思うのだけど、それは社会を生き抜くために培ったスキルに過ぎない。

これは度々言ってきたけれど正直、人間のことが私はあまり好きじゃないと思う。いちいち「嫌い」と言い放つほどの関心もなければ、あまり特定の人に対して入れ込むこともできない。

みんなのことが公平に好きで、公平に嫌いだ。

厄介だなと思うけれど、他人である限り、ひとりの人間の中に良いところも悪いところもあって、全部含めて大好きとはやっぱりならない。

全てを唯一肯定できる存在があるなら、それは自分という人間だけだと思う。そんなに私は寛容で「できた人間」ではないのだと思った。

でも人と話していると、さまざまに発見がありやっぱりやめられないなと思う。自分のインプットが無限にあるからできることだってある。本当に人と関わっているとおもしろい。

まるで自分の心の位置確認をするような感覚。私が他者との関わりの中で、結局知りたいのは、自分のことだったりする。

年齢を重ねるほどに、自分の好きなもの、お気に入りの時間が明確になればなるほど、苦手なものや嫌いな時間が増えていったのだから仕方ない。

誰かを好きだな、良いなと思うほど、嫌だな、むりだなと思うことも増えた。社会はなんて両価的なのだろう。

今の自分が毎日会いたい人って誰だろう。現実的に言うとそれはきっと、まだ見つかっていない。

毎日一緒に居られる人も、はっきりと分からない。

パートナーと毎日一緒に居たらどんな毎日になるのだろう、とワクワクすることはできるけれど、私はその人をその距離感で本当に大事に愛せるか自信がない。

今まで散々に壊してきてしまった。
その自覚が、私の距離感を担保しているのだと思った。

そういえば、こんなことがあった。

「世界がこれから終わります、最後に誰に会いたいですか?」と聞かれた。私は沈黙した。

よく考えてみて、ひとりだけ浮かんだのは恩師ただ一人だった。それも結構無理やり出した感じもあって、その他に会いたい人が全く浮かばない。

どうしてだろう、と思った。だって、そんなの寂しいではないか。

でも、よくよくひも解いてみたら、「私よりも大事な人にみんなは会いに行って欲しい」が本音だと思った。

逆に言えば、私は「誰よりも誰かの大切な人」ではないということなのだと思う。そうやって生きようとこの数年は自分が動いてきた結果なのだと思う。

「誰かの大切になるのがこわい」

親友を早くに失くしてから、誰かの大切な人になるのがどこかで私はとても怖くなってしまったと思う。

それでも、そういう気持ちが自分の中にはあるのだな、と思いながら、心地いい距離感を測っていくことの繰り返しだ。

実際私は、誰かの大切であるし、誰かしらを大切にして生きている。

これは、なんでもそうなのだけど、「目的」のためになにが一番の近道なのかをいつも私は考える。

自分の大切な人たちが苦しそうなのが、きっと私はなによりもしんどい。自分がその要因となっていたなんて分かった日には、軽く絶望する。

それを解くためならいくらでも行動しようと思っているし、実際にしていると思う。だから簡単に手放すこともあるし、追い掛け回すことだってある。

自分の持っている最大限の力、知性、体力を私は周りへ還元したいと思っているし、そうなると多くの人にかまけている時間はない。

自分と人間関係というものは、切り離すことができない。だから私はそうやって自分の大切を、愛するものたちを、大切なまま持ち続けられることができる自分が好きだし、愛せる。

すべては、近道への「手段」でしかない。

ここまで書いて、私にとって「毎日会う」ことや、「同棲」、「結婚」…そういうものは手段の中のひとつに過ぎないのだなとおもった。

もしそれをして周りの人や自分を大事にできるなら、今すぐにでも、今日からでも行動変容を私はしているに違いない。

いつもなにが一番いいかと考えて行動しているのが私なのだから。うん、愛せる。

「どうしてそういう行動をしたの?」と聞かれたら、私はきっと全てにしっかりと意志を持った回答ができると思う。自分の人生を操縦しているのは自分だという自覚がある。

でも、ほんと、真面目だな(笑)と時折笑ってしまう。日常のこだわりが多いのかもしれない。でもそういう人生はおもしろい。

いつかまた、誰かと毎日顔を合わせて「おはよう」「おやすみ」と言う日が来るだろうか。それはそれで、楽しそう!

結局すべては「目的達成」のための「手段」でしかないのだから、私は様々な形で愛情を表現する力を付けてきたのかもしれない。

これからもこの手足や肉体にたくさん詰まった愛情を、周りへと循環させていきたい。

もっと必要な人に、もっとたくさん届くように。人を愛するのは、ほんとうに心地いいものだ。


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