見出し画像

プライドが邪魔してると思うならプライドを「経験」に置き換えてみるといいかもしれません

いつもたくさんの方に読んでいただいており、本当にありがとうございます。noteでは、イタリアンレストランのオーナーシェフである僕が、普段、考えていることをお店のスタッフに語りかけるつもりで書いています。


先日ある人と話していたときに「人の意見を素直に聞けないことが多いのは、プライドが高いからなんでしょうか」という話になりました。

人にネガティブなことをいわれると瞬発的に頭にきて反論しちゃうそうですが、時間を置くと「そういう意見もあるかも」と思い返して反論したことを後悔するんだそうです。

そういう瞬間は、じつは僕にもあるんですよ。

人からネガティブなことをいわれて、ムカッとすることは誰にでもあります。むしろムッとしない人はいないと思います。だから僕は「あんまり深く考えないほうがいいと思いますよ」とお答えしました。

僕はムカッとしたら、「なんかムカつくよね」とまわりにもいっちゃうタイプなので、それを隠す必要もないんじゃないかと思います。その方が、人間らしいですから。でも、世間に噛みつきまくってもダメだと思います(笑)。

プライドは自分を見つめ直すきっかけになる

ところで「人の意見を聞く」ことが素直にできないのが「プライドが高い」のとどう関係があるのでしょうか。

それはおそらくプライドは、自分が経験してきたことに対する圧倒的な自信から生まれるものなのではないかと思います。

たとえば僕は、料理がつくれます。その部分についてはプライドがありますけど、たとえばプログラミングはまったく経験がないですからプライドはありません。もし経験がないのにプライドが高かったら、それは単なる馬鹿で無知です。

つまりプライドは、経験を積むことで生まれてくる、言い換えれば年齢を重ねることで芽生えるものでもあるということです(相談してくれた方も立派な大人でした)。

プライド(pride)は日本語で「誇り」や「尊厳」と訳すことが多いですよね。誇りや尊厳があるからこそ、自分の意見の方が優れていると思い、人の意見を採り入れにくくなることがあります。

もし「プライドが邪魔をしている」と感じるならば、少し考え方を変えて、プライドを「経験」と言い換えてみるといいと思います。プライドとエクスペリエンスは同じことだと思うからです。

たとえば「まわりからプライドが高いと思われている」を「まわりから経験が高いと思われている」と言い換えるだけで、なんだかフッと力が抜けませんか? すべて丸く収まるんです。

それに、本人にとっても経験といえるようなことを本当にしてきたのか自問自答もできる。自分自身を見つめ直すきっかけにもなります。

それにプライドが高かったとしても、それを上手に利用できてればいいとも思います。

たとえば矢沢永吉さんって超カッコいいですよね。たぶん矢沢さんは、突っ張って突っ張って、さらに突っ張ることで自分自身をつくっているし、それはプライドの高さがなせることでしょうし、それは“矢沢永吉”という存在の証明でもあると思うので、僕にはできないことだと思っています。

そして周りから認められようと思うと、圧倒的な実力が必要になります。そして、圧倒的な実力をもっているかどうかを決めるのって、自分ではなく周りの人なんです。

だからちゃんとわかってくれる周りの人に対しては、感謝をしているだろうし意見を聞いたり、見えない努力をされてると思います。それってプライドが高いというわけではないようにも思います。

自分という存在はまわりが決める

人間って、周りの人と一緒に生きているもので、周りとの関係によって自分の存在が決まります。つまり、僕という存在を決めるのは僕ではありません。

それに、ある人が思う僕像とまた違う人が思う僕像って、まったく違うんですよ。地元の古くからの友だちが、シェフとしての僕を知ると、「あの、お前が??」なんていわれますから。僕は、そのどれもが僕なんだと思っています。

僕は、確固たる自分を認識する必要性はなくて、周りの人の多くが「おっくんってこんな人だよね」ということを僕は信じて、それが僕なんだと思っています。

そういう意味では、自分に対するプライド(経験という意味でも、誇りや尊厳という意味でも)はあまりなくて、みんなが僕をどう思ってるかが強いかもしれないですね。どこかまわりの期待に応えているという意識が強い。

おそらく僕は、まわりからやさしくて、あまり激高しないと思われていると思うんです。それは、顔つきや醸し出す雰囲気からそう思われているんじゃないでしょうか。

それは、思われ続けたことを遂行していった結果なんじゃないかと思うんです。

それに僕は周りから見られてることが自分に合っていることなので、むしろ周りからみた「おっくん像」に頑張ってなろうとしていくことで僕自身が決まっていく。だから人の意見を聞くというのは、僕にとっては日常作業で、プライドがあるとかないとかはあまり考えたことがありません。

それに周りの意見を断絶するとか、排除することは意味がないことだし、それに対して反論するつもりもありません。そう見えるってことはそうなんだから。それなら直せるところは直そうと思う方がいいんじゃないでしょうか。

それに自分自身のことについていわれたことに反論するって、自分自身に対しての否定でもあると思うんです。

「この人」と決めたら思い切り胸襟を開く

幸い僕の場合は、いろいろな会社の方々とお仕事をさせていただき、僕より長けている方にたくさん出会うことができています。その方々から勉強させてもらいたいですし、そもそも僕が経験したことのない分野でやられているのですから、できるかぎり噛み砕いて飲み込んで反芻するようにしています。

だから、たとえネガティブな意見を言われたとしても僕は、心から「言ってくれてありがとうございます」と感謝の気持ちで受けとることができます。

もちろん、どんな人にもに感謝ができるかというと、そうではないですしょ。最初にもお話ししたとおり、僕だってムカッとするときはあります。

ポイントは信頼できる人であるかどうかということです。自分が信頼できると決めた「この人」に対しては、思い切り胸襟を開いていくことがいいんだと思います。

でも、仮に苦言を呈されたとしても、それはとてもラッキーなことだと思うんです。たとえば、飲食店の人なら一度は経験したことがある口コミサイトやSNSでのネガティブコメントについて。僕は、「ありがたい」と思っています。

というのもオーナーシェフという立場になると、僕自身に意見を言ってくれるスタッフはいなくて、嫌なら辞めていきますから。その点、お客様が「嫌だった」「気分が悪かった」と感じたということは、やっぱり本当に嫌だったり、気分を悪くされたんだと思います。そんな経験をさせててしまったのなら、やはり僕たちも是正する必要があるんです。

自分の周りの人間に近い人の意見ももちろんですが、直接ごあいさつができなかったお客様の口コミというように、遠い人の意見を聞くことも、とても大事だと思っています。

確固たる自分をもっていない」といえばその通りかもしれません。だから僕は何者でもないともいえます。

でもだからこそ、できることもあると思っています。以前「水みたいになりたい」という話しと似ていて、僕は人の間にすっと入り込んで癒せるようになりたいと思っています。

なんだか話が広がりすぎて、自分でも何言ってんのかよく分からなくなってきましたが、長々とお付き合いありがとうございました。

ラ・ブリアンツァ」オーナーシェフ
奥野義幸

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?