【短編(ホラー)】ブラッドハック
「雨、降ってきそうだね」
フロントガラスに映る鈍色の空を見ながら、運転中のミツヨに話しかけた。助手席に座るハヅキは玩具のパッケージを抱えている。その箱には中学1年生に似合わない、低年齢向けアニメで主人公の使うマジカルステッキが入っている。
「嘘ぉ。天気予報だと晴れだったのに。やっぱり、あれから色々おかしくなってるみたい。ほら、ラジオだって……」
ミツヨは悪態をつきながらFMラジオの周波数を変える。時々雑音混じりで話し声が聞こえてくるものの、何を言っているのかまでは分からない。
「いっぱい飛行機が落ちてから?」
「そうよー。たまに停電するし、テレビも映らないことが多くなったし。学校だっていつも通りじゃないでしょ」
ハヅキはパッケージをきゅっと強く抱えなおし、赤信号を見つめる。
「……なんか、怖いかも。みんな面白くなさそうっていうか、なるべく嫌な話をしないようにしてるみたい」
「ウチの会社も……、おっと、つまんない事ばっかり言ってゴメン。今日はハヅキの誕生日なんだから、もっと楽しくしなきゃね! さ、ケーキ買って帰りましょ」
信号が青に変わると、ミツヨは前の車に続いて発進させた。目当ての洋菓子店はあと2ブロック先にある。夕方なので帰宅の車が多く、渋滞していてスピードを上げられない。
「お母さん、トイレ行きたい」
「あら、困ったわね。……じゃ、そこのスーパーに入りましょ」
ミツヨはハンドルを切って行き先を変更する。
道路を曲がり終えた瞬間、後ろで車と車が激しくぶつかる音がした。バックミラーにへしゃげた軽自動車とスピードを落とさずに進む4トントラックが映る。
「なに、今の?!」
車を減速させて道路脇に停めた。ドアガラスを開け頭だけ出して、ミツヨはさっきまで通っていた幹線道路を見る。何台ものコンパクトカーを巻き込んで、ようやくトラックは停止したようだ。
ハヅキはミツヨのただならぬ様子に、手を震わせながら目を瞑る。
「ねぇ、もう行こうよ」
「う、うん、そうね。……あのトラック、こっちに来るわ!」
ミツヨはすぐに車を発進させた。バックミラーに映るトラックはまだスピードに乗っていない。だが明らかにこちらへ向かって来ている。トラックに気を取られたままアクセルをベタ踏みする。
ちらりと目を開けたハヅキは、前方の車に急接近していることに気付く。
「ダメ! 停まって!!」
その声にバックミラーから前へ目を向けたミツヨは思い切りハンドルを左に切る。ブレーキが間に合わず前を行く車のテールにぶつかり、視界はぐるりと回転した。
ふたりを乗せた車はひっくり返って、ボンネットがガードレールにめり込むかたちで停まった。
先ほどのトラックは、また他の車を巻き込んでそのまま突っ走って行った。歩道を歩いていた人たちは悲鳴を上げながら逃げ惑っている。
「痛ぁ……。ハヅキ、大丈夫?」
ハヅキは返答せず、小さく呻き声を上げている。
「……どうしたの、怪我した?」
シートベルトに支えられ逆さになったまま、ミツヨは手を伸ばす。ハヅキの足に触れると、ベトッとした感触があった。驚き手を引っ込める。真っ赤な鮮血。
「ハヅキ! そっちに行くわ!」
ミツヨはシートベルトを外し、割れたドアガラスの隙間から車外に出た。手を突いた場所にガラスの破片が落ちており、手のひらがぱっくりと切れた。しかしそんなことを気にしている場合ではない。
車の後ろを通り助手席側へ回り込む。
身を屈めてハヅキの姿を確認すると、逆さまになった状態でポタポタと血を流していた。顔を軽く触り、声をかける。
「ハヅキ、ハヅキ! お母さんの声、分かる?!」
ふっとハヅキの目が開く。
「……おかぁ……さん、足が……」
頭を車内に入れてハヅキの足を見ると、ガードレールによって押し出されたエンジンルームの部品に潰されているようだ。これでは無理矢理、車の外へ引き摺り出すことも出来ない。車を起こさなくては。
「ちょっと待ってて。人を呼んでくるからね!」
ショッピングセンターに向かってミツヨは走り出した。
ハヅキの視界の中で、彼女の姿がどんどん小さくなっていく。
「……お……かぁ……、どこ……く……、の」
地面を見ると、ねっとりとした血溜まりがあった。意識が遠のいていく。
ぼやける視界の隅から、奇妙な生き物がひょっこりと現れる。それは蛸にも蜘蛛にも見え、子犬ほどの大きさだ。グレーの丸い本体からたくさん半透明の脚が生えており、ウネウネと気味の悪い動きを見せまるで浮かんでいるかのように佇んでいる。
そいつは、逆さまのハヅキの目の前に来ると、言葉を発した。
『アイタイカ?』
「……ぁさんに? ……うん」
薄れゆく意識の中、ハヅキは最後の力をふり絞り頷いた。
そいつのウネウネと動く脚が細くなり、伸びてハヅキの鼻の穴から、耳の穴から侵入して来る。頭の中をまさぐられるような気分。ひどい痛みが走る。抵抗出来ずに嗚咽を漏らす。痛い、痛い痛いイタイ……。
気が付くと、ハヅキはぬるりと車外に出ていた。
両膝から半透明のミミズのような触手が幾つか生え、それらはウネウネと地面を這いながらハヅキの身体を支えている。
「お母さん……」
不思議な力で進み、ショッピングセンターに入る。おかしな動きの人たちが、ぶつかり、噛みつき、殴りあっている。だがハヅキは恐怖を感じない。辺りを見廻し母親の姿を探す。
いた。
ハヅキはその後ろ姿に近付こうと進み始める。
その時、母親に襲いかかろうとするおかしな人を見つけた。
「やめろ!」
声とともに、ハヅキのクチから触手が飛び出した。それはどんどん伸びていって、おかしな人に絡みつき、首を強く締めて頭をちぎり飛ばした。
母親が振り返る。
「お母さん! わたし、もう大丈夫だよ!」
なんで? なんでお母さんはこっちを見て怖がってるの?
だめ、行かないで! お母さん!
お母さ……!
おかしな人がぶつかってきた。わたしの肩を噛んだ。
わたしの心臓が、ドドドドドってすごく速く鳴りだした。
力が入らない。
おかしな人に押されて、わたしの腰が何かに刺さった。
痛みはない。でも動けない。
おかあさん……。
どうして……にげる……の。
どこにもいか……ないで……。
わたしは……ここに……。
い…………る……。
〈終〉