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熊野に神います~熊野の神をご一緒に
「熊野に神います」というフレーズは、984年に源為憲(みなもとのためのり)が、冷泉(れいぜい)天皇の皇女尊子(そんし)内親王のいわば仏教入門書として書いた三宝絵詞(さんぽうえことば)に登場します。
彼女は後に那智で修行したとされる花山(かざん)天皇の同母姉です。原文は「紀伊国牟婁郡に神います」ですが、これを少し変えてブログのタイトルにしました。原文ではこの後、神の名前が出てきますが、それは改めてに
上賀茂神社の岩上と片山御子神社(片岡社)
上賀茂神社の境内には「神山」と並ぶ賀茂信仰の原点とされる「岩上(がんじょう)」があります。社殿はなく注連縄で結界された岩と草があるだけですから、ほとんどの参拝者が足を止めずに通りすぎるようです。磐座祭祀の場所になります。神社が建てた説明板には次のように書かれています。 岩上(がんじょう) 賀茂祭(葵祭)には宮司この岩の上に蹲踞(そんきょ)、勅使と対面し、御祭文(ごさいもん)に対して神のご意志を伝
もっとみる上賀茂神社にゆかりの二つの国有林
上賀茂神社の周辺には、祭神の別雷神が降臨したとされる「神山(こうやま)」が神社の北にあり、そこから東に連なる山を「本山(もとやま)」と言います。これを総称して「賀茂の神山」として歌枕として和歌に詠まれています。そして「神山」も「本山」ももとは上賀茂神社の社地でしたが、明治の上知令により国有地となり、神山(こうやま)国有林と本山(もとやま)国有林となっています。本山にはいくつかの峰があり、当ブログ
もっとみる賀茂別雷大神の降臨地の4ー神山に関する資料の説明
まず『大日本地名辞書(だいにほんちめいじしょ)』から。この本は明治33年(1900)3月に第1冊上が出版された地名辞書。日本初の全国的な地名辞書として、在野の歴史家吉田東伍個人によって13年をかけて編纂されました。序言に「本書は地誌にして、其名辞の索引に便利なる体裁を取りたり、即、地名辞書といふ」とある通り、地名についての語源、変遷だけでなく、地形や歴史などあらゆる風土的事象を扱い、寺社や河川、
もっとみる賀茂別雷大神の降臨地の3ー上賀茂村志にある神山
寛政7年(1795)の『賀茂名所物語』では、一説として、別雷山別土山正ノ岳は同じ一つの山の名前で、「片岡山のうしろ、御生山の東にあり、俗に圓山と号す」としています。これによると、別雷山、別土山、正ノ岳は同じ山であり、場所は片岡山のうしろ、御生山の東にあり、俗に圓山(丸山)と呼ばれているということです。
明治44年(1911)の『京都府愛宕村志』にある「上賀茂村志」の内容を下記に引用します。なお
賀茂別雷大神の降臨地の2ー江戸時代の地誌にある神山
神山は現在は上賀茂神社の北北西2kmにあり、京都産業大学の裏手にある山とされていますが、前章にも書いていますが、平安時代の史料にある神山がこの山を指すかどうかは分からないということです。
江戸時代の地誌にはどのように書かれているでしょうか。
まず『扶桑京華志(ふそうきょうかし)』では、賀茂山の別称を「神山」、又は「鴨ノ羽山」、初名を「別雷山」としています。この「別雷山」の「雷」は「土」と訓ず
賀茂別雷大神の降臨地の1ー神山(こうやま)の由来
神山は神の鎮座する場所としてふさわしい整った円錐形の山容をしています。こういう姿の山を神奈備山(かんなびやま)と言い信仰の対象となっています。その代表と言えるのは奈良県桜井市の三輪山です。神山は現在聖域として禁足地になっております。周囲は神山国有林となっていますが、磐座のある山頂部分は上賀茂神社の所有地となっているようです。
神山周辺が国有林になっているのは明治政府による上知令(あげちれい、じ
賀茂旧記に書かれた賀茂別雷大神の伝承
当ブログの「賀茂別雷大神の誕生(1)ー上賀茂神社の伝承」では上賀茂神社の公式サイトの内容を紹介しています。これは『山城国風土記逸文』と『賀茂旧記(かもきゅうき)』を基に書かれています。『風土記逸文』はすでに紹介しましたので、ここでは『賀茂旧記』の内容について紹介します。『賀茂旧記』は『逸文』と重複する部分もありますが、後半の別雷神が夢に現れて神迎えの儀式を語る部分は『旧記』独自のものです。
旧
蓼倉里の三身社(2)ー河合神社末社の三井社
下鴨神社の摂社河合神社の中門の前(南側)に河合神社末社の三井社があります。この神社は別名を三塚社ともいいます。
神社社頭の説明板によると、重要文化財申請社殿 三井社[別名三塚社]中社賀茂建角身命 西社伊賀古夜日売命 東社玉依媛売命 古い時代の下鴨神社は、古代山代国愛宕、葛野郷を領有していた。この里には、下鴨神社の分霊社が祀られていた。この社は、鴨社蓼倉郷の総(祖)社としてまつられていた神社であ
蓼倉里の三身社(1)ー下鴨神社摂社三井神社の2
三井神社は下鴨神社の第3摂社です。第2摂社は御蔭神社、そして第1摂社は河合神社です。三井神社は下鴨神社本殿に隣接しているという立地からしても下鴨神社にとって重要な存在であることが分かります。また下鴨神社本社や御蔭神社には祀られていない伊可古夜媛が祀られていることも特徴です。
三井神社は延喜式神名帳の山城国愛宕(おたぎ)郡鎮座21座大8座小13座のうちの三井神社(みついのじんじゃ)大月次新嘗の
蓼倉里の三身社(1)ー下鴨神社摂社三井神社の1
『山城国風土記逸文』の最後に「蓼倉里、三身社、称三身者、賀茂建角身命也、丹波伊可古夜日女也、玉依日女也、三柱神身坐、故三身社、今漸云三井社」とあります。ここに書かれているのは、蓼倉郷に三身社(みみのやしろ)があり、三身というのは、賀茂建角身命、丹波伊可古夜日女、玉依日女の三神がおられるので、三身社といい、今は三井社と言っているということです。
下鴨神社には三井神社が摂社の三井神社と河合神社の末社
乙訓坐大雷神社の論社ー菱妻神社
山城国風土記逸文にある別雷神の父親の火雷神を祀るという式内社の乙訓坐大雷神社の論社の三つ目は菱妻(ひしづま)神社です。菱妻神社は京都市には伏見区久我石原町(こがいしはらちょう)3―27と南区久世築山町(くぜつきやまちょう)367の二ヵ所あります。どちらも式内社の簀原(すはら)神社の論社とされ、またどちらもかつては「火止津目(ひしづめ)」大明神と言いました。「ひしづめ」とは「火鎮め」という意味で、
もっとみる向日明神の伝承その4ー広隆寺の秘仏薬師如来像の2薬師如来像が2体
平安時代の寛平2年(836)の『広隆寺資財交替実録帳』には、安置仏の筆頭に「霊験薬師仏檀像壹躯居高三尺在内殿」と記されています。この時点では薬師如来像が本尊です。薬師如来像を本尊に据えたのは先にも述べていますが道昌だと思われます。この実録帳には「居高三尺」とあります。つまりこの薬師如来像は坐像でした。秘仏薬師如来像は立像です。それが室町時代の『広隆寺縁起』や『広隆寺来由記』には、「檀像薬師如来像
もっとみる向日明神の伝承その3ー木枯神社の2木枯森
木枯神社の旧鎮座地の社叢は「木枯杜(こがらしのもり)」と呼ばれていたと言います。この森は、清少納言の『枕草子』の「森は…」の中で言及されています。また『後撰和歌集』などでも歌枕として和歌に詠まれています。この歌枕としての「木枯の森」は、山城国の木枯神社に比定する説と、駿河国の木枯神社(静岡県静岡市)に比定する説とがあります。なお『能因歌枕』では、山城国、駿河国の両方が歌枕として採用されて掲載され
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