石手寺の沿革ー河野玉澄が熊野十二社権現を祀ったのが始まり

 石手寺の寺伝によると聖武天皇の神亀(じんき、しんき)5年(728)に伊予の豪族、越智玉澄(おちのたまずみ、たますみ)が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724~749)の勅願所となりました。翌年の天平元年(729)に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊として祀って開基しました。創建当初の寺の名前は「安養寺(あんようじ)」と言い、宗派は法相宗でした。平安時代に入り、嵯峨天皇の弘仁4年(813)に弘法大師空海が訪れ、真言宗に改めたとされます。宇多天皇の寛平(かんぴょう、かんぺい)4年(813)領主の河野息利に生まれた長男の息方が当寺で祈祷を受けると握っていた手から「衛門三郎再生」と書かれた石が出現したという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められました。河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院でしたが、永禄9年(1566)に長宗我部元親による兵火を受け建造物の大半を失いました。ただし本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れています。鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼茶羅形式の伽藍配置を現代に伝えています。境内から出土した瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良の法隆寺系列の荘園を基礎として建てられたという考証があります。 
 熊野十二社権現は現在でも石手寺の本堂の後方に祀られています。 
 越智玉澄は河野氏を名乗った初代であり、ウィキペディアでは河野玉澄と出ています。玉澄は、「たまずみ」とも「たますみ」とも読まれます。玉澄という人物の出自や近親者などについては異伝があり、不明なところが多いです。『予章記』などでは、小千守興(おちのもりおき)が越国でなした子供と伝え、『小里玄義』によれば、玉澄(玉純)は十城別王の十九代の後裔の和介公万躬(わけぎみのますみ)の子とされ、伊予国風早郡(かざはやぐん)河野郷(こうのごう、現在の松山市北条付近)に居を構えたことから河野玉澄と称し、河野を名乗った初代とされています。本人のものと伝承されている墓は今治市の小泉にあります。河野玉澄の出自に出ている十城別王(ときわけのきみ)は、『日本書紀』によると吉備武彦の女(むすめ)の吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)と日本武尊の間に生まれ、伊予別君の祖とされます。兄弟に武卵王(たけかいごのきみ)がおり、讃岐の綾君の先祖になります。十城別王は仲哀天皇の異母弟になり、神功皇后の朝鮮出兵に従軍し、帰国後は現在の佐賀県平戸市に留まり西国警備を命じられました。朝鮮に行くまでは伊予の国の和気郡に居住していたと言われます。西条市下島山(しもしまやま)の飯積(いいづみ)神社に祀られています。宇摩大領越智玉澄の館跡と伝えられている場所が伊予三島市(現、四国中央市)御所(ごしょ)にあります。また、今治市別名(べつみょう)に「玉澄の大楠」があります。樹高22m、目通り幹囲10.0mで、昭和34年(1959)に愛媛県の天然記念物に指定されています。市立日高小学校の南西約300m、建物に囲まれた場所にあります。越智玉澄がこの辺りを統治しており、このクスノキはその墓標として植えられたという伝承があるそうです。



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