おくまんさま

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熊野に神います~熊野の神をご一緒に

「熊野に神います」というフレーズは、984年に源為憲(みなもとのためのり)が、冷泉(れいぜい)天皇の皇女尊子(そんし)内親王のいわば仏教入門書として書いた三宝絵詞(さんぽうえことば)に登場します。 彼女は後に那智で修行したとされる花山(かざん)天皇の同母姉です。原文は「紀伊国牟婁郡に神います」ですが、これを少し変えてブログのタイトルにしました。原文ではこの後、神の名前が出てきますが、それは改めてにします。牟婁(むろ)郡は、現在の行政では、三重県に南北、和歌山県に東西の牟婁郡が

    • 乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の3

      六人部家(むとべけ)についてネットでは、古くは下ノ社の宮司をしていた。承久の変(1221)に火雷神社の神主の六人部氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫は丹波に隠棲した。曾孫の氏貫の代の建治元年(1275)旧里に帰ったが、社殿の頽廃はなはだしく向神社の神主•葛野義益の建議によって、火雷神社の御樋代(ご神体)を向日神社に納めた。その後六人部家は上ノ社の宮司をも務めるようになった。六人部是香(むとべよしか 1798ー1864)は、幕末の向日神社の神職であり、国学者だった。弟子に、坂本

      • 乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の2

        向日神社の由緒の説明の中で、「雷」に「いかづち」と「いかずち」と二つの振り仮名が付けられています。現代仮名遣いでは「いかずち」になります。ネットの語源由来辞典によると、いかずちの「いか」は「たけだけしい」「荒々しい 」「立派」などを意味する形容詞「厳し(いかし)」の語幹で、「ず(づ)」は助詞の「つ」。「ち」は「みずち(水霊)」や「おろち(大蛇)」の「ち」など、霊的な力を持つものを表す言葉で、いかずちは「厳(いか)つ霊(ち)」が語源。本来、いかずちは鬼や蛇、恐ろしい神などを表す

        • 乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の1

          長岡京市の角宮神社から東に徒歩15分ほどの場所に旧府社の向日(むこう)神社があります。住所は京都府向日市向日町(むこうちょう)北山65番地。向日神社が向日市の地名の由来といわれています。 向日神社の祭神は向日神(むかひのかみ)、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、玉依姫命、神武天皇です。向日神社には建角身命は祀られていません。 向日神社は二つの神社が合併されており、一つは『延喜式神名帳』の向(むかへ)神社。こちらは小社で論社はありません。もう一つは乙訓坐大雷神社で、名神大社。

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        熊野に神います~熊野の神をご一緒に

          乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の2

          角宮神社の社伝によると創祀は継体(けいたい)天皇の勅命により創建されたとなっています。継体は第26代の天皇で、507年に大阪府枚方市の樟葉宮(くずはのみや)で即位し、511年に京都府京田辺市の筒城宮(つつきのみや)に移り、さらに518年に弟国宮(おとくにのみや)に移ります。弟国宮の場所について、本居宣長は『古事記伝』で「井ノ内村、今里村の辺なり」と書いています。今里の場所は井ノ内の南になります。継体天皇の住まいがこの場所にあったという伝承から角宮神社の創建が勅命によるものとな

          乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の2

          乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の1

          「山城国風土記逸文」にある賀茂別雷神の父とされる乙訓郡に坐す火雷神を祀る社は『延喜式神名帳』にある「乙訓坐大雷神社(をとくににますおほいかつちのかみやしろ)」とされています。神名帳にあるこの神社は、「山城国乙訓郡十九座、大五座、小十四座」のうちの名神大社であり月次新嘗となっています。月次祭(つきなみさい)と新嘗祭(にいなめさい)には朝廷から奉幣を受ける格式の高い神社ということになります。この神社の論社は三社あります。角宮神社、向日神社に合祀された火雷神社、そして菱妻神社です。

          乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の1

          別雷神の父は火雷神?

          『山城国風土記逸文』では玉依媛に子供を生ませたのは乙訓郡の社におられる火雷命(ホノイカヅチノミコト)と書いています。丹塗矢の正体が火雷神ということです。ただしこれには異説があり、大山咋命(オオヤマクイノミコト)だとも言われていますが、ここでは『逸文』に従って火雷神として話を進めます。 火雷神は火雷大神(ホノイカヅチノオオカミ)と表記され、ウィキペディアによると、雷神であり、雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた

          別雷神の父は火雷神?

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市市島の鴨神社の3

          鴨神社境内の説明板の続きです。 ○祭儀 節分祭2月 祈年祭2月  例祭(水無月祭)7月 流鏑馬神事10月 新嘗祭11月 ○神野神社•伊可古塚址の石碑 境内の東北隅の地に建立 ○丹波市指定文化財絵馬「桃園義盟圖」長澤蘆州(円山応挙の高弟で蘆雪の義子)の画を蔵。○下鴨神社(下之森大神宮 昭和23年遷宮) 厄神神社 豊受神社 金刀比羅神社 柿本神社 鴨荒魂社 稲荷神社 猿田彦神社 厳島神社の九社 平成26年4月吉日 平成22年度鴨神社氏子総代 とあり、さらにこの説明板には境内の案内

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市市島の鴨神社の3

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市市島の鴨神社の2

          『氷上郡志』に書かれています市島の鴨神社についてですが、文章が難解で内容も分かりにくいです。内容を整理してみます。鴨庄で賀茂御祖神に縁のある神社を探すと、梶原にある鴨神社が該当します。鴨神社のある丹波市市島町梶原は明治維新前には鴨庄村に属し、『郡志』が編纂された当時は吉見村となっていました。神社のたたずまいからも古社であることが分かります。また鴨庄という地名からも賀茂の神との関連があります。この神社の境内に古墳があり、イカゴ塚と呼ばれています。この古墳を発掘したところ土器やそ

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市市島の鴨神社の2

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市氷上の神野神社の3と丹波市市島の鴨神社の1

          神野神社の境内にある説明板には、当初の神野神社が円通寺の創建に際し、その境内地を譲って現在地に遷ったときに、賀茂野神社(当社)と北田井の賀茂神社に分かれたと書かれています。この賀茂神社は、丹波市氷上町賀茂1番地に鎮座しています。祭神は別雷神。上賀茂神社の分霊を祀っています。創建は第50代桓武天皇の延暦年間(782~805)と伝えられています。県道109号線沿いに石造の一の鳥居があり、それを潜り小川を渡った先に二の鳥居があり、こちらの扁額には「賀茂大明神」と書かれています。境内

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市氷上の神野神社の3と丹波市市島の鴨神社の1

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市氷上の神野神社の2

          伊可古夜日女の伝承ー丹波市氷上の神野神社の2

          伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の2と丹波市氷上の神野神社の1

          前章の宮川神社の由緒を要約すると、まず欽明天皇の時代に宇佐八幡宮より誉田別命(八幡神)を勧請し、天武天皇の時代に神尾山の山上に伊賀古夜姫を鎮祭し、この神社が式内社の丹波国桑田郡神野(かみの、かんの)神社であり、神尾山の山上の神野神社と山腹の八幡宮の二つの神社が存在していましたが、戦国時代末期に明智光秀と波多野秀治が戦った時に両社ともに焼失し、その後良くないことが続いたので、江戸時代の初めに神尾山の麓の現在地に再建して、二神を合祀して神社の名前を宮川神社と改称し現在に至っている

          伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の2と丹波市氷上の神野神社の1

          賀茂別雷大神の誕生(3)ー久我神社と伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の1

          久我(くが)神社は京都市北区紫竹下竹殿町(しちくしもたけどのちょう)47にある上賀茂神社の境外摂社(第八摂社)。祭神は建角身命。ただし上賀茂神社文書によれば、近世には国常立尊とする説もあります。 創建年代は不詳ですが、賀茂県主氏が大和から山城に移住するに際して祀った社の一つとみられています。 『山城国風土記逸文』には、建角身命が移動した場所として3ヵ所挙げられています。①山代の岡田の賀茂、②葛野川と賀茂河とが会う所、③久我国の北の山基。このそれぞれの場所に賀茂氏の氏神が祀られ

          賀茂別雷大神の誕生(3)ー久我神社と伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の1

          賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その3

          建角身命は木津川を下り、葛野河(桂川)と賀茂河との合流地点に来て、賀茂川を「みはるかし」ます。ここにある賀茂川は現在の鴨川のことと思われます。ここで注目したいのは「みはるかす」という表現です。大阪市にあるあべのハルカスの「ハルカス」は「みはるかす」ことから付けられた名前です。「みはるかす」には高い所から広い範囲を見るというイメージがあります。鳥が空から眺めるような。建角身命は八咫烏と言われて、神武の道案内をします。まさにみはるかして進路が分かったということになります。また建角

          賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その3

          賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その2

          別雷神の誕生の由来を伝える『山城国風土記』は『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に引用されています。風土記の原本は伝わりませんが原本から引用されていますから「逸文」ということになります。  『釈日本紀』は鎌倉時代後期に書かれた『日本書紀』の注釈書で、全28巻。『釈紀』とも略されます。著者は卜部兼方(うらべのかねかた、やすかた)。鎌倉時代の人ですが生没年は不詳。書かれた時期もはっきりしません。 山城国風土記逸文に書かれていることをみていくことにします。 建角身命は日向の曾の峯に天降っ

          賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その2

          賀茂別雷大神の誕生(1)ー山城国風土記逸文その1

          岩波書店が出版した『日本古典文学大系』第二巻「風土記」に、「釈日本紀一巻九一所収山城国風土記逸文」が収載されています。それを引用します。なあ文中の漢字の一部は旧字体から常用漢字に変えています。 山城の国の風土記に曰(い)はく、可茂(かも)の社(やしろ)。可茂と称(い)ふは、日向(ひむか)の曾(そ)の峯(たけ)に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かもやまといはれひこ•神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、大倭(やまと)の葛木山(かづ

          賀茂別雷大神の誕生(1)ー山城国風土記逸文その1