衛門三郎の再来伝説ー寺の伝承とウィキペディアから
石手寺は四国遍路のルーツとされる衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの寺院です。衛門三郎の伝説について石手寺の公式サイトから引用します。
むかし、愛媛県に衛門三郎という豪族(河野家の一族)がいました。家は富んでいましたが、強欲で非道な行為で神仏を敬わず、慈悲の心を持たず、日夜私利私欲を追及していました。ある日、彼の屋敷を訪ねてきた托鉢(布施を求める行為)の僧を追い払おうと竹ぼうきで鉢を8つに割ってしまいました。その僧こそは弘法大師空海だったのです。翌日から、三郎の8人の子が次々と死んでしまいました。大師への懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追って謝るための旅に出ました。いわゆる四国遍路の始まりです。しかし、20回目もお遍路を重ねても大師に会えず、ついに21回目から逆回りを始めました。その21回目の途中、徳島の12番札所▪︎焼山寺のふもとで力尽きて倒れてしまいました。その時、大師が現れ「望みはあるか」と尋ねました。三郎は「来世も河野家に生まれ、人の役に立ちたい」と言い残し息たえました。大師は石に「衛門三郎」と刻み、彼の手に渡しました。翌年、この地方の豪族▪︎河野家に生まれた男の子は、右手を固く握りしめたまま開きません。寺で願いをかけたところ、衛門三郎と書かれた石が現れました。この石を寺に納め、寺の名前を石手寺と改めました。とあります。
衛門三郎について、ウィキペディアでは 寺の伝承よりも詳しく紹介しています。
天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の松山市恵原町▪︎文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとする説もあり)、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師(空海)であった。三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにして巡礼を続けた。その途中、阿波国の焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫びた。大師が「望みはあるか」と問いかけると、三郎は「来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)」と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月(石手寺刻版では天長八年辛亥のみ。杖杉庵縁起では天長8年10月20日。)のことという。翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。とあります。
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