文殊院に伝わる衛門三郎の伝説ー弘法大師との再会と三郎の死

衛門三郎は、文殊院に弘法大師を訪ねますが、旅立った後でした。三郎は紙に自分の住所、氏名、生年月日を書き、大師がこの札を見ると衛門三郎がお参りした事が分かるようにと、お札をお堂に貼りました。その場所が「札始大師堂」とされています。このお札を「せば札」といい、現在の納め札のもとと言われています。
やがて、8年の歳月がたちました。その間、衛門三郎は弘法大師に会うために20回巡りましたが大師には会うことができませんでした。閏年の天長9年(832)に徳島県の切幡寺(きりはたじ)から逆に巡ると弘法大師に会えるのではないかと思いつき、逆回り(逆打)を始めました。しかし、焼山寺(しょうざんじ)の麓へ差し掛かると足腰が立たず、三郎は倒れてしまいました。すると、死を目前にした三郎の前に弘法大師が姿を現し、「よくここまで歩んできましたね。今までの罪はもう無くなっています。しかし、あなたの生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば一つだけ叶えてあげましょう」と言われました。三郎は「できることでしたら、故郷伊予の国主の河野さまの嫡男に生まれ変わらしてください」と頼みました。大師が、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、三郎は亡くなりました。弘法大師は、三郎が持っていた金剛杖をお墓の上に逆に立て供養しました。後に、この杖から芽が出てきて大きな杉の木になりました。現在、杖杉庵には二代目の杉の木が生えています。また、大師は文殊院に三郎の位牌を持って来られ、子供の位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を厳修しました。
その後、伊予の領主▪︎河野伊予守左右衛門介越智息利に玉のような男の子が生まれましたが、その子の片手が開きません、その子が3歳になったとき、桜の花見の席で文殊院のある南の方角に向かって両手を合わせ、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と三べん唱えました。すると、手がパッと開き、その手の中から小さな玉の石が出てきました。家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。その石を安養寺へ持って行って納めました。以来、安養寺を石手寺と改めました。その子は衛門三郎の話を聞き、成長すると民、百姓に喜ばれる政(まつりごと)をしたと言われています。
 徳盛寺は西山興隆寺を開いた空鉢上人によって創建され、その後空海が文殊菩薩の導きによりこの寺に滞在して教えを広めたことから文殊院と名付けたと伝えられています。西山興隆寺の正式名称は、仏法山(ぶっぽうざん)仏眼院(ぶつがんいん)興隆寺(こうりゅうじ)と言います。背後の山である「西山」を付けて「西山興隆寺」と呼ばれます。真言宗醍醐派の別格本山で、本尊は千手千眼観世音菩薩。住所は西条市丹原町古田(たんばらちょうこた)1657。JR四国予讃線壬生川(にゅうかわ)駅から車で25分の場所です。四国別格二十番札所では9番の文殊院に続いて10番札所になっています。高縄山系の東のふもとに位置し、周囲の山々に溶け込んだ景色が美しく、特に紅葉の名所となっています。寺伝によれば、皇極天皇元年(642)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、弘法大師が入山し、桓武天皇の勅願寺となったとされ、源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の守護を得て護持されてきました。



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