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ガムシロおばさん

三半規管がめっぽうに弱い。バスや車で遠出すると、途中のサービスエリアのトイレに駆け込みゲーゲー吐いてしまう。だからこそ人一倍耳には気をかけてきた。しかし今年の猛暑に耐え切れず、区民プールへ行ったのが運の尽きだった。耳に侵入した水の抜けない感覚が、1週間経っても抜けなかった。

横になる度、耳の奥底でちゃぽんちゃぽんと塩素臭い水が跳ねている気持ちに駆られ、我慢出来ず綿棒で何度も耳内の水分を拭き取る。しかし、今考えると耳に入った水はとっくに抜けており、乾燥した耳壁をガシガシと綿棒で削ってしまっていたのである。なので当然、耳だれを起こしてしまった。

耳鼻科へ出向き、外耳炎と診断された帰り道。私の喉はカラカラだった。ただでさえ茹だるような猛暑日に、耳鼻科で3時間も時間をとられ、喉は砂漠と化していた。人間の水分量は何%になったら死ぬんだったかと横断歩道の手前で信号機と並び、ぼんやり立ちすくむ。ふと、道路を挟んだ向こう側にコーヒーショップが見えた。

水だ、叫び出す気力もない。同時に、砂漠で井戸を見つけた喜びが胸を支配していた。

店内に入り、冷たいカフェラテを注文する。13時前だからか、人の密度はかなりのものだ。商品を受け取り、丁度空いた席に腰掛ける。ストローを使わず、一気にカフェラテを体内に流し込む。美味い。一口で半分程減ったカフェラテのグラスを、コツンとテーブルに着地させる。後はゆっくりストローで飲もう、そう考えながら視線を何気なく隣のテーブルに運んで驚いた。60歳ほどの貴婦人が、自分のグラスに波々とガムシロップを入れているのだ。グラスの周りには、10数個のガムシロ容器が規則正しく並べられており、まだ足りないのか貴婦人は自分の鞄から追加でガムシロップを取り出している。


驚きのあまり周囲を見渡すと、皆一様に手元の機器に夢中で、誰一人白昼下の貴婦人の奇行には気がついていない。

大体の人間は、理解のできない他人の行動を見ると恐怖を抱くものだ。例に違わず私もそのタイプなので一気に貴婦人が怖くなり、この席から逃げ出したくなった。しかし店内は混み合っており、他に空いている席などなく、私はここに留まるしかない。諦めながら、横目で貴婦人を隠れ見る。手を休めることなく注ぎ続けているので、グラス周りをガムシロップが結露のように流れ落ち、底には水溜り、いやガムシロ溜まりができていた。

うわ、ちょっとヤバい人だ。2度目の正直で、私の脳が危険を察知したため、一旦トイレに逃げ込むことにした。手洗い場でスマートフォンをいじりながら、最寄りのSNSに「ガムシロおばさん奇行なう」の文言と共に、こっそり無音カメラで撮影したガムシロ貴婦人の写真を載せる。土曜日の昼間ということもあってか、すぐさま暇なフォロワー達がいいねやリツイートを施してくれた。また、顔見知りのフォロワーも、「ガムシロおばたん草」「おま鍵つけんと刺されるぞww」とリプライをくれる。20分程SNSに浸かり、フォロワーとやりとりを交わすうちになんだか落ち着いてきた。そろそろ貴婦人も退席しているだろうと、席へ戻る。貴婦人の席は空席のまま、机の上には空になったグラスと大量のガムシロ容器が転がっていた。


一安心し、自分のグラスを持ち上げる。氷が溶けてカサが増している。もう出ようと、一気にグラスの中身を流し込む。ウェホッ、エッ。姦しい店内に咳込む音が響き渡る。視線が集まるのを肌で感じながらも咳込むことをやめられず、涙目になりぼやける視界の端で、従業員が「大丈夫ですか」と駆けつけてくる姿が見えた。

私のグラスの中には、大量のガムシロップが注がれていた。

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