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無関心が人を生きていることにさせている理由。


オバケの話をすると、多少安易に思われるかもしれない。
けれど、まあ、日常にもオバケがいるということで。
何も接点がある人が、オバケだということでもなく、通勤中の電車の中にいる大勢の人の一人がオバケの時もある。

普通に電車に乗って、中野駅で降りていく。
座席には座らず、コロナウイルスを気にしてつり革にはつかまらないようにしているようだけれど、身体で電車の揺れを逃がしているときに、若干の苛立ちを感じるときがある。

なぜこの人が、オバケだと分かるのかと言えば、まず、身体の下半分が透けている。一応、スーツを着てはいるけれど、それと一緒に透けている。
もう一つの理由は、この人が、電車に飛び込む瞬間を知ってる。
飛び込む瞬間に、一瞬こちらを見て、僕と目が合った。
そして、ホームへ。
電車は急ブレーキ。
この人は轢かれることはなかったのだけれど、そのまま意識を失い、運ばれていった。その日のホームは大混乱だった。

だから、まあ、もしかしたら、生きているのかもしれないとも思うのだけれど、じゃあ、なんで身体が透けているのさってことなのである。

その後、自ら命を絶った可能性がある。
けれど、死ねなかったと思った彼は、まだ淡々と日常を続けているのかもしれない。

でもまあ、都会の無関心からか、彼が透けていることを誰も言及している様子もなく、もしかしたら、僕しか見えていないのかもと思ったりする。

僕しか見えていないということになると、よくありがちなのが、僕も死んでいたという話。
僕も自分がどこかの時点で死んだのだけれど、それに気づかず、淡々と日常を過ごしているんじゃないかという恐怖。

そんな恐怖から、あの透けた人に話しかけてみようかなぁと思ったりもする。
するのだけれど、
「……」
まあ、いいかと。

とりあえず、今日も生きていることにしよう。


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