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痛みがない。


痛み止めを飲まないでも大丈夫になった。
気分も良くなる。

必要以上のだるさが収まってきたと同時に、
「まあ、そんなに頑張らなくてもいいや」
と、自分を許す気持ちになった。

身体の痛みに耐えながら、必要以上に「我慢」しているのに気がついたのだ。

そんなに頑張らなくていいのだ。
まず、痛みがない。
それだけで十分だった。

ということで、「痛い間」は怒りでフツフツとしていた。
どいつもこいつも「痛くない」というのが許せなかったのだ。

なぜ痛い自分が、痛くない奴らのフォローをし続けないといけないのか?
という怒り。

しかし、「痛くない」となったとたんに、「痛さ」についての考えが無くなり、そもそも、フォローなどしなくて良かったのだと気づく。

どういう意味か?

痛いということで、無意識に「痛くない奴らへ」の怒りを必要以上に駆り立てたかったのだ。
そして、やらなくていいことをやり、余計に苦しみ、また腹を立てることで、なんとか「痛み」を受け入れていたのだと。

痛さが無くなり、その「痛み」との向き合い方の複雑さ、繊細さについて、思春期のモジモジに似た、どうしようもなさを思い出し、少しだけ笑った。

「まあ、そんなに頑張らなくていい」
なるようになればいい。
もう痛みはないのだから。



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