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短編小説『お父さんと、呼ばないで』

香田さんが、行きに通った道ではなしに、帰りは国道に出れば真っ直ぐに駅の方に行けると言う。その方が近道らしい。

国道の出るところまで、見送ってくれるそうだ。

100メートルほど先に、車のヘッドライトが盛んに行きかっている。信号の点滅しているのが見える。そこが、国道なのだろう。

スパークリングワインの酔いと、香田さんの歌の余韻に加えて、昼間の熱気をまだ残している外気に触れると、焦りにも似た息苦しさを感じる。

あと100メートル。

その間に、今夜のお礼を言わなくてはならない。

同じ会社とは言え、親子ほどの年の離れた女性の部屋に招かれて手料理を食べさせてもらった。

おまけに、ギターの弾き語りで、自分の作った歌まで聞かせてもらった。

当然、お礼を言わなくてはいけない。

しかし、ためらっている。

言葉に出した途端、それは過去のものとなってしまう。

今夜のことを並び立ててお礼を言っても、それは、裁判官の判決のように、未来への道は閉ざされる。

香田美月をもっと知りたい。

もっと長く一緒に居たい。もっと話をしたい。

それを伝えるには、どうしたらいいのか。


後ろから、音もなしに自転車が脇を通り抜けた。

「危ない」

咄嗟に身を反転させた。

マンションの間の空間から金星の瞬きが見えた。

金星は、空に舞い上がって、火花をまき散らしているように見えた。

そう花火だ。

咄嗟に、去年家の近くで花火を見たことを思い出した。

「来週の土曜日、淀川の花火大会があるけど、家の近くの河川敷で見ることができます。良かったら、一緒に見に行きませんか」

「淀川まで随分離れていますけれど、見えるのですか?」

「遠くに見えるという感じです。人も少ないですし、穴場です」

「淀川の花火、行きたい。連れてってもらってもいいですか」

「もちろん。家の近所ですよ」

「でも素敵。私、浴衣を着て行ってもいいですか」

「いいですよ。それならば、私も久々に浴衣を着ていきます」

「貴島支社長の浴衣を着ているところを見たい」

「私も、香田さんお浴衣姿を見たい」

さすがにそれは、声に出すことはできなかった。

「ではここで。ここを真っ直ぐに行けば駅に出ますので」

「今日は、どうもありがとう。楽しかった」

「私こそ、ありがとうって、言いたいです。どうもありがとう、オトーサン」


別れ際に「お父さん」と言われた。

結局は、そんな風にしか思っていなかったのだ。

私は、亡くなった香田さんのお父さんの偶像でしかなかったのだ。

家族以外から、「お父さん」と言われると肩の力が抜けてしまう。

男という生き物の範疇の中で、攻撃性のない、性的魅力のない、最も平和的な分類に放り込まれるのだ。

確かに、香田さんは「お父さん」と言った。

私は、真夜中の見知らぬ街をさまよい歩いているような気がした。

香田さんは最後の言葉で、暗闇の中に私を放り出した。

あれ程までに、親切にしてくれたのに、楽しく会話ができたのに、歌まで歌ってくれたのに、

何故だ。

何故、最後に私を突き放す必要があるのだ。
                      つづく

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