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ミッキーマウスの不調和音(『天国へ届け、この歌を』より)

「ああ美味しい」

香田さんが、先にスパークリングワインを飲んでしまった。

「あっ」

思わず口に出た。

「乾杯をするのを忘れていた」

「ごめんなさい。私、先に飲んじゃった?」

大きく開いた口をいっぱいに開かれた両方の手のひらで、覆う仕草が可愛らしかった。大したことでもないのに、こんなに大げさに反応するのが意外だった。

香田さんの神格化した女としてのベールが一枚剥がれ落ちた。いや、剥がれ落ちたのではなく、新しい側面が浮かび上がった。

彼女は、娘のカンナと同年代の女の子だと改めて気づいた。今まで堅苦しい思いをしていたけれど、自分の娘と同じように接すればよいだけじゃないか。何も堅苦しく考えなくていいのだ。そう思った瞬間に、自分でも驚くくらいの大きな笑い声が出た。

香田さんは、何かを企んでいる。

私のディズニーのグラスの向きを無理やり変えさせられた。

「ミッキーとミニーちゃん柄を合わせて、乾杯します。ではカンパーイ」

以前、カンナにミッキーのマペットを無理やりつけさせられて、カンナのミッキーのマペットとお話をしていたら、ミニーちゃんがいきなり迫ってきて、キスをさせられてドギマギしたことがある。その光景を思い出した。

私にとって、それが神妙な儀式に思われて、慎重に香田さんのグラスに合わせた。

それは、チンという金属製の音が鳴り場を盛り上げてくれるはずだった。期待に外れてこつんと鈍い音を立てた。香田さんも、あまりにギャップが激しいと思ったのだろう。思わず声を立てて笑い出した。それが、あまりにも楽しそうだったので、こちらも釣られて笑い出した。グラスの泡も一斉に踊り出した。

「やっぱり美味しい」

私も一口飲んだ。本当だ。千円ほどの安物を買ったのに、ドンペリにも負けないような味がした。香田さんの笑顔で魔法にかかったみたいだ。

料理もさっきとは全然違う。味がついている。ご飯と味噌汁、冷奴、いんげんの胡麻和え、鯖の煮付けどれもが美味しい。どれもが、繊細な味付けをしている。料理屋で食べるような押しつけがましい美味しさではなくて、今食べている料理は、素材の持つ持ち味を十分に発揮している。

先程は、緊張していたから味の方にまで、気が行かなかったのだろう。香田さんの笑顔を見て、一気に緊張が解けた。今は、すごくリラックスできている。だから、味覚の方にまで神経が行くようになったに違いない。

とにかく、どれも美味しい。

「香田さん、さっきは味が分からないって失礼なことを言ったけど、すごく美味しい。特に鯖の煮付けが美味しい。何か懐かしい味がする」

「分かります?実は、隠し味に八丁味噌を入れています。貴島さんは、名古屋のご出身とお聞きしておりますので、気に入ってもらえると思い出まして入れました」

「それでか、何か懐かしい味がすると思ったよ。香田さんは、歌もうまいし、料理もうまいし。二刀流の達人ですね」

「そんなことはないです。でも、両方ともハーモニーが大切だと思います。それだけを心がけています。それだけです」

「なるほど、ハーモニーねえ。何事にもハーモニーが大切だね」

そう言ってしまった自分を後悔した。人間関係もねって、続けようとしたが、自分自身の存在のハーモニーが取れていないなと感じたのだ。目の前の香田美月との関係、会社との関係、自分の家族との関係。

全て、私は不調和音を出している。私という存在が不調和音なのかもしれない。ハーモニーの取れていない自分。

そう言えば、私は生まれてきてからずっと、枠からずれたところに居るような気がしていた。誰も気づかなかっただろう。そのはずだ。私は、それを表面には決して出そうとしなかったからだ。しかし、内面は違う。

私は、自我が人一倍強いのだ。集団の組織に組み込まれるのが嫌だ。その中に入ったとしても、表面上は合わしているが、内面は常に違和感を持っている。

いつも、疎外感を感じないときはない。どこにいても、孤独だ。

グラスの中の泡が一つ、ゆらゆらと昇ってパチンと弾けた。

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