見出し画像

写真のこと


試作だけれど、自分の撮った写真を写真集として形にした。レイアウトに頭を悩ませて、ああでもない、こうでもないと言いながら。どの写真を載せるか、どの順番で置くか。流れを掴むために何度も所持している写真集を見たけれど、まだまだ難しいと感じている。

写真を撮って表現をするならば、展示や写真集などにして形にしないといけない。私の一番好きな写真家の方がそう言った。

最近小さいながらもグループ展に参加した。
現地には行けなかったけれど初めて写真展に参加した。プリントされたものを見てもらう機会を持てた。
名前も顔も知らない人たちに、私の知らない土地で写真を見てもらえることは不思議と緊張しなかった。

SNSで写真を載せている人たちは多くいて、目的もそれぞれ。写真展はずっと頭にあったけれど、今年ようやく動き始めたのは、SNSで触れる写真に自分でもどう言えばいいのか分からない感覚になったから、だと考えている。

InstagramやTwitterは媒体自体が軽い。展示の会場のような空気感はない。それ故に、そこに載る写真自体も見方が変わってくるように思う。私は徐々に自分のアカウントで写真を見ていくうちに、耐えきれないなと思うことが増えてきた。拡散力はあるし、早く広く多くの人に自分の撮ったものを見てもらうには便利すぎる。でも、その簡単さと軽さみたいなものが、意味を持たない写真自体に侵食していくようになって、写真ってこんな軽かったっけ?と錯覚し始めていく。

そんなことを思いながら私はまだInstagramもTwitterにも写真を載せているけれど。使い方は考える必要があるかなと思うようになった。


写真に対して色々とそんなことを思いながら、やっぱりプリントされたものを実際に目で見てもらうべきだなと今の私の答えにたどり着いた。
これから他にグループ展に参加したり、個展も行いたいと考えている。写真集もまだ作り続ける。
ただ、思うのは、作ることや形にすることが目的になるんじゃなくて、自分が関心を持っていることを探求して考えて、その途中に ぽんっと生まれるのが展示や写真集だったりすること。

私はずっと死生観とか人の存在とか考えてきて、それをぐるぐる考えている中で写真に触れて、表現の手法として用いた。言葉を要しない写真は、私にとってないと困るものになった。

写真を撮ることで、新しい疑問も生まれた。幸せなことだと思う。死ぬまでに答えを見つけられるかは分からない。多分無理なんだろうなぁと思っているけれど、楽しいからいい。

写真を通じて知り合った人たちは沢山だけれど、言葉を交わした人は少ない。みんながどういう思考で写真に触れて、撮って、見ているのだろう。趣味でも遊びでも本気でもなんでもいいけれど、SNSで見てきた沢山の写真、いいねが沢山ついた写真、つまらないなと思うもの、よく分からない感覚になるものは一定数ある。私が思う写真をちゃんと見れる距離は、SNSでは作れない。

技術も知識も乏しい私が今思ったこと。
技術がなくたって言いたいことは表現していいんだと、大学の先輩が数年前に言ってくれた。
私は正しいと思っている。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,489件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?