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森雅裕『ビタミンCブルース』と森高千里についての雑文

普段はツイッターでしか投稿してないLomaといいます。

noteは、なんとなくアカウントは作ってみたけど、長文書くこともないし、、と放置してたんですが、今日読了した本の感想を書いてたら、思いの外長文になってしまい、じゃあnoteに投稿するかと思った次第です。

さて読了した本とは、森雅裕『ビタミンCブルース』です。

読みますツイートの画像を流用します。
分かる人は分かると思いますが、見返しの絵はどう見ても森高千里です。

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見返し

そして各章ごとのタイトルは、全部そのまま森高千里の曲。『コンサートの夜』『A君の悲劇』『やっちまいな』『Get Smile』など僕が大好きな曲が並んでいます。

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目次

おまけに主人公は歌手の「千里」。千里バンドのメンバーは当時の森高千里バックバンドのメンバーと同姓ですし、マネージャーも同姓、メイクさんも同名です。

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登場人物の一覧

本書で千里が最初にフルネームで呼ばれる時など、

「メリー・クリスマス、――千里」

と苗字が”――”で伏せられてはいますが、巻末では、、

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巻末

なので主人公は森高千里と断言できます(正直、伏字にする意味ねえだろ)。紛らわしいので本雑文では、『ビタミンCブルース』の主人公は「千里」、実際に存在する森高千里は「森高」と表記します。

森高千里のキャリアは、きちんと振り返って評価しなければならない偉大なものですが、それは誰か他のちゃんとした人が書いた文章に譲り、本雑文では『ビタミンCブルース』と森高の関連性だけ綴ります。森高千里史観で重要なことも書きますが、詳しい解説はしません。

本書、ただ単に主人公の名前やキャラクター造形に森高を拝借したということはなく、随所にマニアックな森高ネタが散りばめられています。

「音合わせのあと、振りつきで全曲通しのリハーサルを行う(中略)とはいえ、曲順や歌詞をいつもやたら間違える千里には、緊張すべきことは多い。」

実際、森高は1本のライブでだいたい1、2曲はミスをします(Loma調べ)。その他にも楽譜をスラスラ読めたり、黒蝶のコスプレ衣装を着たり、カレーが大好きだったりと千里と森高にはたくさん類似点があり、ディティールが細かく的確なので、読んでるうちに千里の言動にも妙なリアリティを感じて来ます。きっと森高ってこういう性格でこうやって話すんだろうな、みたいな。

この小説は森雅裕による一種の森高論だと思うのですが、冒頭、

「僕たちのヒロインだった歌手の話をしよう。」

と過去形で始まり、そして終わり方も、

「こうして、僕たちのヒロインをめぐる事件は落着した。それからいくらも時間が流れたわけではないが、現在、彼女は僕たちの前にいない。」

となっています。『ビタミンCブルース』の初版は1993年8月20日。森高のフェミニン化は1992年11月発売のアルバム『ペパーランド』からですし、この年の大晦日には『私がオバさんになっても』で紅白歌合戦に初出場し、いわゆる大衆化を果たしています。本書の語り部は暗に、

「僕たちのヒロインだったミニスカート・ハイヒール・ロングヘアー・コスプレ時代の森高千里はもういない」

と言ってるように思えますし、「僕たち」は大衆化・フェミニン化する前からの古参森高ファンだったが、森高が大衆化・フェミニン化することで「僕たち」の前からいなくなってしまった、というように受け取れます。当然「僕たち」には森雅裕も含まれているでしょうし、「僕たち」をいわゆるオタクやA君(森高用語)に置き換えてもいいのかもしれません。が、脱コスプレを機に森高から離れていったファンをあまり固定概念で見るのはどうかと思うので止めておきます(何を言ってるのか?)。

『ビタミンCブルース』のハイライトは、千里が大晦日の生放送ラジオ番組で、紅白的な商業主義音楽業界に意見してから、私は自分のファンのために自分の音楽をやります、とリスナーに宣言する場面。

「そりゃ、私はヴィジュアルから入った歌手です。ミニスカートで売っている歌手です。けどさ、本音で仕事してますよ。もちろん、本音といってもルールはあるわけで、かの国民的番組がミイラに厚化粧したような番組だなんて、いうことはしませんけど(中略)そうした番組と無縁の、荊棘だらけの自分の道を歩いている人たちに、私は話しかけていたいんです。(中略)大晦日番組に出られたら歌手やめてもいいって人がいるんだから、番組に出なかったもんで歌手やめた人がいても、いいよね。やめないけど(後略)」

僕的に感動的な場面で、まるでジャン=リュック・ゴダールの商業映画との決別宣言のように感じました(雑文の趣旨的に森高の『非実力派宣言』と言うべき所だろ)。

ここは森雅裕の音楽業界論を千里にのっけて語らせてるとも言えますが、当時の森高にはそれだけ個として確立した独自性があった証左とも思えます。雑誌などで森高を「モリタカ」とカタカナ表記して、固有性を強調していたのも一例になるかもしれません。当時のインタビューを読んだり、ライブのMCを聴くと、芸能人なら普通は避けて言明しにくそうなことでも、言うべきことは言ってしまう人だというのは分かります。

ただ残念ながら僕は、森高が音楽活動を止めていた2000年代にファンになったため、1987年のデビューから1993年辺りまでの森高を巡る特殊な空気感を当時の映像や活字を通してしか分からないもどかしさがあります。その辺りの感情は何度がツイートしてますし、これからも吐露すると思います。

『ビタミンCブルース』は森高的ディティールのツボを押さえながら、森雅裕が理想とするアイドル像を投影した千里が主人公のアイドル小説です。そして僕はアイドル森高の全盛期を追体験したいと渇望していました。のめり込んであっという間に読了するのは必然でしたし、僕は数々のディティールや作者の技量によって本書からアイドル森高を感じ取ることが出来ました。

ただ当たり前ですが『ビタミンCブルース』はフィクションです。本書から影響を受けて僕の森高像を構築するのは、若干危険性を孕んでいるのも事実です。

ですが、本書の読後感としては、千里から僕の森高像を構築するのもあながち間違いでもないような気がしました。森雅裕の「完璧なヴィジュアルと掟破りの詞よりも、彼女の生き方に真に評価すべき点がある(Loma要約)」という森高評には同意したいからです。

あと古参森高ファンが現在から当時を回顧して語ると、どうしても想い入れが強すぎて主観が出すぎるきらいがあると思います。なので、1993年当時の出版物という貴重な観点から、森雅裕の森高論に片足ぐらいは乗っかってもいいんじゃないでしょうか。

僕は映画や小説などの作り手の意図を考える方法として、タイトルの意味を考える事があるのですが、気になる本書のタイトル『ビタミンCブルース』とはどういう意味なのでしょうか?

森高の楽曲でブルースがつく曲は『ザ・バスターズ・ブルース』と『THE BLUE BLUES』があります。

『ザ・バスターズ・ブルース』はゴキブリ退治の歌、『THE BLUE BLUES』は恋人の浪人生をディスりながら応援する歌です(書いてて笑てしまう)。

本当は『Sleepless Night Blues』も入れて3曲ありますが、これは後期の曲なので考察から省かれます。

果たしてどういう意味があるんでしょうかね?(良く分からんので、知ってる方いたら是非コメントでご教示下さい!)

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