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詩・散文「林檎を描く」

リンゴを描く

絵筆をとって何十年
林檎がそこに在るような林檎の絵を描きたかった
いや
林檎そのものが在ると言う事を描きたかった
今でもそうだ
しかし未だ描けてはいない

いくらかは林檎がそこに在るかのような絵は描けるようになったが
林檎そのものが在るというにはほど遠い
いったい林檎が在るとはどういう事か
そして何故私はその「問い」に「描く」事で答えようとするのだろうか

もう何十年も絵を描いているので「林檎がそこに在るかのような絵」は描けるようになった
しかし「林檎の絵」が「林檎」に近づけば近づく程私が見出したのは
「林檎そのものの存在」なんかではなく 
「林檎」と「描かれつつある林檎の絵」との相違であった
林檎そのものを描こうとその存在に近づけば近づくほど
またはそっくりに描けば描くほど
「林檎そのもの」と「描かれた林檎」の相違は際立ちその溝は深くなったのだった

「林檎を描く」とはそういう事だ

その存在に近づき同一化を目指せば目指す程相違の溝が際立ってくる
描くとはつまり
近づけば近づくほど深まる溝の確認の作業なのだろう
それは同一性を方法とした差異の確認の反復の作業であり
その敷衍こそが私の在り方に他ならない

するとこうもいえるのかもしれない
「信仰」が同一化の志向であるならば「問い」は差異を志向すると言う点で「描く」とは即ち「問い」なのだろう と

「問い」もまた理解すればする程深まる深さなのだから

2022年1月21日 岡村

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