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詩・散文 「人生の完結に向けたケアについて覚書」

人生の完結に向けたケアについて覚書

その人の最後の段階で、その人生をどう締めくくるかは、どのような環境でどのような人と関係を築くか、が鍵となる。「どのような人」、このもっともな担い手はケアする者であろう。終わりよければすべて良し・・・とは言い過ぎかもしれない。しかし、その人の人生をよいものとして色づけるか、惨めな挫折として印象付けるかは、ケア如何にかかっている。ケアは人の一生をそのように左右する。たとえその人の人生が客観的にどうみても苦難に満ちたものであったとしても、ケアされるものとケアするものの関係がすばらしいものであるならば、それはまったく逆転したものとなるだろう。大袈裟に言うのならば、即ち「この環境、この人との出会いのためにこれまでの苦境はあったのだ」とすべては逆転するだろう。ケアというかかわりは結局、ケアするものとケアされるものによって共同でなされる、物語の更新(≒ライフレヴュー)なのかもしれない。物語に於いて、その人の人生を看取る=完結させる事がケアなのだ。そのように考えてみると、ケアとはなんと素晴らしい使命であり、また、ケアの重責というものが果てしなくのしかかってきはしないだろうか。

ターミナルケアでは遅すぎる。1月、1週間のターミナルケアでは、苦痛の緩和と当座の慰めと癒ししか成し得ないであろうから。物語を紡ぐにはある程度の係わりの時間が必要であろうから。つまり、人の生の完結には二人称の関係が必要であるという事であるだろうから。
                      2013年 岡村正敏

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