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哲学・日記・メモ「こどもの哲学とろうじんの哲学」

こどもの哲学とろうじんの哲学

「こども」は世界と出逢い、世界に驚き世界に問いかけ、「世界への問いかけ」を介して世界とあそぶ。
「ろうじん」もまた同じくあそぶ。
しかし「ろうじん」はもう一歩先まで足を延ばして「世界への問いかけ」自体を問う事で、単なる「こども」の問いには収まらない。
だから「問う事」を哲学の本質とするならば、だから「こどもの哲学」は「ろうじんの哲学」に敵わない。
世界と出逢い、その出逢いを世界とともに分かち合うのが「こどもの哲学」の本旨であるならば、出逢いそのものに内在している「世界と私の分裂の事実」に、この事実に幾重にも問いを重ねていくのが「ろうじんの哲学」なのだろうから。
そして、こんな事はもしかしたらは言うまでもないのかもしれないが、「こども」「ろうじん」は実年齢の子供と老人の事を指しているのではない。70歳のこどももいれば、8歳のろうじんだっている筈なのだ。
ついでに言えば「こどもの哲学」と「子供の為の哲学」は全く異なるし、「ろうじんの哲学」と「高齢者の為の哲学も全く異なるのだろう。
私は願わくば「ろうじんの哲学」をしたいものだと思う。

2021年9月22日 岡村正敏

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