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哲学・日記・メモ 「石との対話=ケア=描くという事」

石との対話=ケア=描くという事

●他人が何を考えているかわかりません。何を思っているか、感じているかも私にはわかりません。でも彼彼女の発した言葉、身振り表情を手掛かりにして、それがわかるかのように「思いなす」事は出来ます。それは人に限らず動物や植物にも当てはまる「思いなし」だと思います。しかしそれがほぼ通じない対象があります。それは何か?                ●それはただの石とか、コップに入れられたただの水だとかです。鉄でもいい。ガラスでも。そういった「もの」が何を考えて何を思い何を感じているのか・・・私には「思いなす」手掛かりがないからです。
●手掛かりが乏しいほど、相手や動植物の立ち位置に己を置き換える事は困難になる。だとしたら、鉄や水やガラスの更にその極北に、全く手掛かりを与えてくれない「ものそのもの」があるのだとしたら、それこそが絶対に理解不能な他者なのだろう。
●少なくともそのような「ものそのもの」に比べれば、鉄や水やガラスは具体的な色や形や硬さや冷たさ、鋭さといった、微妙ではあるが刻々と変化する表情を手掛かりに出来るだけましなのかもしれません。
●閑話休題。
「他人」に話を戻します。例えば、意見の異なる他人は自分の意見を声や言葉や文字にして、または図や表で表したり、身振り手振りを交えたりもして伝えようとするだろうし、それを手掛かりにして私はその人の立ち位置に自分を置き換え、その人を限定的ではあるにせよ理解する事は出来るだろう。ではその人が唖者であったり肢体不自由であったりしたらどうか?その程度に比例して手掛かりは錯綜しまた乏しくもなるだろうから、彼彼女の理解は困難になる。その理解の為には小さな手掛かりを見落とさず、小さな手掛かりを大きな想像力で膨らませる事によってしか、その人の立ち位置に立つことは難しくなる。つまりそ唖者や肢体不自由な方の「他者性」を私が「思いなす」為には、健常者に対する注意力、観察力、想像力を増して行使する事によってしか成されないのだろう。しかしそれこそが実はその人を理解しようとする事であり、その人に対する全方位的な気遣いであり、すなわちケア(=気遣い)である筈なのである。
●するとこういう事が言えるのではないか?
「その人を理解する事(理解できない事も含めて)が『対話』であるならば、そして理解する為には『ケア(=気遣い)』が必要であるのならば、対話とはケアに他ならない」
という事。
●そしてそのようなケアは、限りなく物言わず、身じろぎもしない石や水やガラス、そしてその延長にある「なにものでもないもの=object」との対話を経て「ものそのもの」との対話を志向する。
●その方法には何があるだろうか?石も水もガラスも話さないし自ら動きもしないのだから、動植物以上に私はその表面的な見かけに注意を払い、よく観察し、想像力をたくましくして、石や水やガラスの立ち位置に立とうとしなければならない。そしてそこに働きかけをしなければならない。それは有機的な連関から疎外された石や水やガラスに、再び有機的な関係を持ちこんで働きかけるという事であり・・・私は物を作ったり絵を描くという事はそのような働きかけの方法であり、対話でありケアである、と考えるのです。                  表題に戻るのならば、                        「石との対話は石へのケアであり・・・石を描くという事」である。    2021年5月6日 岡村正敏

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