見出し画像

雑考・日記・メモ「対極主義の罪」


岡本太郎の最終的な表現スタイルを「対極主義」だとすれば、それは大阪万博で完結しているはずである。太陽の塔のそれを言っているのではない。丹下健三のウルトラモダン建築をぶち抜いてそそり立つ太陽の塔の、この、モダンとプレモダン、もしくはイデアとアーキタイプの対極の実現だけが唯一の太郎の作品なのだと言いたいのである。
縄文時代の復古を想わせる太郎の太陽の塔だけを見れば、それは復古でありパロディであるにすぎない。しかし太郎の行きついた表現を「対極主義」と見做すのならば、それは、縄文とモダンが対極をなした表現でなければならなかった。だから太郎の対極主義には、丹下健三の建築が必要であった。丹下健三はそのことを承知していたし、それだからこれは、太郎のみの表現ではなく、太郎と健三のコラボレーションでもあるという点で、その後のアートシーンの先取りでもあったはずである(作者の死としての構造主義もしくはポスト構造主義の援用のアートシーンに繋がっていく端緒でもあるが故)。
しかしこの、太郎が行きついた対極主義に罪があるとすればどうだろうか。そして私は、罪があるとするのである。何故ならば太郎の対極主義は、作者の死とともに、作品のポイエーシスを社会へのプラクティスへと、作品と社会を混淆させたまま、社会へと開かれた対極主義であることを良しとしてしまったのだから。そうしてその極みは、人類の死活に繋がる東西冷戦と言う対極主義として実現したのだから。太郎の対極主義に罪があるとしたら、それは対極主義を、私秘的なポイエーシスから社会的なプラクティスへと開いてしまった事だろう。私秘的な特殊な実存の小さな物語に向かうポイエーシスではなく、社会的なプラクティスへとアート(技術)を開いてしまったことであるのだろうと、思います。
そして「私秘的な特殊な実存の小さな物語に向かうポイエーシスではなく、社会的なプラクティスへとアート(技術)を開いてしまった」と言う点では、社会彫刻を唱えたヨーゼフ・ボイスにも同様の事が言えるのだと思います。

対極主義は私秘的なポイエーシスの中へと持ち込まれなければならなかったし、それは小さな物語の制作としての、作者の復権として機能させるべきものではなかったか。


2021年11月1日 岡村正敏

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?