見出し画像

藻琴原野 第三話 峠より

    東を向いて立っている。
 何もなかった高原の地にこうして観光客がエゾシマリスに手でヒマワリの種を与えている光景を見ているとほんとうにに心から微笑ましくなる。 ソフトクリームの幟は俗々しい。
 ここからでも十分風光明媚なのである。 端正な斜里岳が残雪を抱え天をかざし、オホーツクの平野と森林がすべてが同じこの2つの眼に飛び込んでくる。 眼を右に移せば、眼下に屈斜路湖の東側の湖面の波々がまるで肌のように望め、 硫黄山が一際蒼とまだ淡い緑の視界の中で異質な殺風景な色彩を放っているのが 手に取るようにわかる。 カムイヌプリ(神の山の意)こと摩周岳が鋭角をのぞかせている。 北の大地の四季の厳しさによりこの地にまっすぐ育つことを許されないエゾマツとダケカンバがところどころに点在している他は、逞しいハイマツとササに覆われ光輝いている。  湖面を渡り斜面を駆け上ってハイマツの香りをのせてくる風たちが、頬を優しく撫でてゆく。 季節は5月、ウグイスたちが盛んに競うようにさえずっている。
ここは、ハイランド小清水725。
その名のとおり標高725mであるが、日本アルプス2500m級のハイマツ帯の植生の垂直分布である。 道道網走川湯線、網走支庁と釧路支庁の境界であり、分水嶺に位置していることになる。 人は、そこを今では小清水峠と呼ぶ。
手向け(たむけ)を語源としているとの説がある峠とは、山間の小さな里に暮らす昔の人が遠くへ往ってしまった人に向けて遠く手を合わせたことからなので あろう。
そして、この峠をあのヤイトメチャチャも春の固雪の上を道なき遙かな頃に往来 したのだと想うと胸が熱くなった。
「私、もう準備できましたよう」
停めた車の脇にザックを置き、足の身支度も終えたクミちゃんが笑っている。 いつの間にかトイレから帰ってきていたらしい。
 クミちゃんはどうしても藻琴山に登って自分の住む村を眺めてみたいんだよう、 そして内緒に確認したいことがあるんだようとこの日、初めてここへやってきた のだ。 飲み仲間の娘さんであるため、ぼくが成り行きで案内役を引き受けたのだった。 まだ高校生で、一段と元気の良い純真な女の子である。
「どこから登るのン?」
クミちゃんは愛くるしく首をかしげて尋ねる。 「あそこから登るんだよ。まずは登山届に名前を書いてからね」
「ねえ、あれが頂上なのン?」
ハイマツに一面覆われた斜面のスカイラインのてっぺんをクミちゃんは指さしている。
「あそこは通過点だよ、頂上はまだその先の先!そしてさらにもっと先!」
「がっくん!」と、クミちゃんは今時使わないような言葉で明るくおどけて見せてくれた。
「大丈夫、大丈夫、クミちゃんの足なら、そうだな40分ってとこかな?」
「そっか、その40分が地獄なのねえ」
そんな会話を響かせながら駐車場を登山口へ向けて歩き出した。
 藻琴山への小清水側登山口は、この駐車場の端にあり、路は木製の階段をのぼ ってハイマツの回廊にやがて迎えられてゆく。のっぺりとした安山岩がまるで自 分が庭の主人公のように落ち着いている他は、ところどころの残雪からの水が土を泥と化し、ハイマツの針枯葉が薄汚れて敷き詰められた一本のつづら路である。
 クミちゃんはつるりんと片足を滑らせては、ケラケラと一人で笑っている。 ぼくがちょうど横目に見た「頂上まで1750m」と、ぶら下がっている看板のご丁寧さが恨めしく思ったときだ。これが年齢による感覚差というものなのか。
「うわあ、かわいいー!」
クミちゃんは黄色い声を出している。 幾分陽当たりの良いところには、早咲きのエゾイチゲとミツバオウレンが白く可憐な花をすっとした茎をハイマツの下に立ち上げて一輪ずつ咲かせている。  クミちゃんは初心者にありがちな普段の歩幅で快適に登りだしていたから、今にも息が上がるだろうと、ぼくは後ろからてくてくとゆっくり付いていっていた。 路はまだ芽吹きさえないダケカンバに囲まれたやや急登になるが、一気に広場へと飛び出る。 かつて小屋のあった場所だが、今ではその基礎部分をかろうじて目で拾える程度である。  まだ15分しか歩いていないが、クミちゃんが休みたいと云う前に、ぼくはザックを背負ったまま煙草を取り出して一服をつけた。 クミちゃんは所在なく広場をうろうろとした後、屈斜路湖をしきりに眺めつづけはじめたが、次の瞬間にはクミちゃんは女の子らしいリュックから何かお菓子を すでに取り出して口の中に放りこんでいた。
「いい空気ですねー、なんかすっきりします」 「そうかい?」
ぼくはその空気をわざわざ煙草で汚していることが少し情けなくなったりした。
 ぼくらはしばらくその広場にいた。 「知ってますぅ?」
「なにさ?」
「私ね、この山の頂上にある歌碑を知っているんですよぅ」
「頂上に歌碑なんて、あったかなあ?」
ぼくははぐらかすように応えたが、確かに過去の幾度の記憶を辿っても頂上に歌碑はなかったように思えるのだった。歌碑らしきものと云えば、あの石碑のこと が思い浮かんだが、たぶんそのことではないだろうナ、心の中で思った。
「私、暗唱してきたの。”湖(うみ)の鷹、樹海(もり)の鷹となりにけり”ってね」
クミちゃんはまるで暗唱をほめて欲しいかのようにうれしそうに云ってくれた。 感動的な歌、言葉の持つ魅力、深さとの出会いだった。 ぼくは煙草を吸い殻入れへ念入りに消し込んだ。
「いい歌だね、まさしく藻琴山からの絶景の気高さを表現しているね」
「いいでしょ?だから、その歌碑を見たくて。おばあちゃんが教えてくれたの」
「そうなんだあ」
「そう、おばあちゃんね、いつも眺められるあの藻琴山の頂上にはね、その歌碑があって、そして小さな神社があるんだよ、って教えてくれたの。これが私が山を登りたかった内緒の理由なのね、実はね」
クミちゃんの内緒事というのは、そういうことだったのだ。 しかし、はて、神社も頂上にあったものだろうか、とぼくは10数年前から幾度と登ってきている過去のこの山への自分の記憶がかなり疑わしくなってきた。
 2人がいる広場の隅の枯れ草に南を向いて小さなお地蔵様が佇んでいた。 冬には冷たい雪の下となり、凍える地面に身を置くその姿に心はじんと打たれる。 この山で命を落とした人の還り宿る唯一の場所なものか安全を願う道祖神なのか、 ぼくにもクミちゃんにも知る由もなかったが打たれた心は変わりなく、そのまま 目を細め、ぼくもさっきクミちゃんが見たように同じくより広がった屈斜路湖を 振り返り眺めた。
 クミちゃんは、「レッツ!スポーツ」と印字された飲み物を一口ごくんと飲み、 キャップをきゅるっと閉めてから、そのお地蔵様のところに小さなキャンディをそっと置き、しゃがんで手を合わせた。 後ろにひとつ大きく束ねた髪が、陽射しを受けて明るい茶色に一瞬きらめいたよ うだった。  ぼくはそのクミちゃんが云う”湖(うみ)の鷹、樹海(もり)の鷹となりにけり”という歌碑と、同じく頂上に存在するという神社に心を奪われ、記憶との一致を無性 に求めていた。
 頂上へ向けて再び歩き出す準備をうながす動作をした。
「クミちゃん、さあ行こう!」

エゾシマリス
広場のお地蔵


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?