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藻琴原野 第五話 手帳

 頂上下の広場から群生するチシマザクラの下を花びらをくぐるように抜けて、 今度はぼくたちは銀嶺水へとササの中の路を下りていた。 ここからは15分もあれば東藻琴側の登山口にあるその清冽なその水を口に含むことができるはずだ。 そこは八合目にあたるところで、小屋もある。
 この日はクミちゃんのお母さんがぼくたちを迎えに来てくれていることになっていて、その足で小清水峠に停めてきたぼくの車を拾う手はずになっていた。
 クミちゃんはてくてくと足を運び、歌をふんふんと口ずさみながらご機嫌よろしく歩いていた。 クミちゃんがご機嫌なのは、さきほど頂上下の広場で広げたお弁当をまるで遠足のようにして楽しく食べたからなのかも知れない。  
「どうして外でおにぎりを食べると、こんなにおいしいのン?」
と、 クミちゃんは眼をくるくるとさせてしきりに尋ねていたのだった。
 この東藻琴側のコースは、登ってきた小清水峠側のコースと違って、大きなダケカンバがどかんどかんと立っていて、広々したササの光景だ。 大きく空に向かっている樹々たちは、それ以上に下へ根を張る苦労があったこと だろう。
 ササの刈り分け手入れの行き届いた道ばたの一カ所にコケモモの葉がかたまって いた所で、前をゆくクミちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「何か落ちてるよう、これ」
手にとって見せてくれたのは手帳のようであり、幾分古そうであったが雨などに あたっていない、新しい落とし物のようであった。 見てはイケナイ後ろめたい感じもしたが、中を見ないことには落とし主もわから ないナと勝手な判断をする前に、すでにぼくの指はその手帳をめくっていた。 クミちゃんが後ろ髪を束ねなおし、どれどれと興味津々の顔で覗き込んで身を乗り出してくる。
 中には鉛筆で走り書きされたような小さな文字がつらつらと綴られていた。
『藻琴山は実によい山です。初めて斜里に住んだとき、日の沈むあたりにつつましく霞んでみえるのがそれでしたが、斜里岳があまりにりっぱすぎますので、ひきたたないのは余儀のないことでした。
 ところが浜小清水の原生花園に行きますと、すっかり様子が違います。オホーツク海を背にして、濤沸湖に向かいますと、遠景にきわ立って大きな翼を張った 山が藻琴山で、原生花園の重要な景物となっています。いま一つ、屈斜路湖岸、 砂湯に行ったときです。湖を隔てて、おおらかな山容を見せているのが藻琴山で、 湖上の中島とよい対照をして、屈斜路湖の景色をひきたてます。  しかし、登るとなるとアプローチの長い案外不便な山で、夏分だけ小清水町からバスが出ていました。』  
ぼくは二息くらいで一気にクミちゃんに読んで聞かせた。 といってもクミちゃんも自分でその太陽の下の文字を眼で追っていたのだが。
「クミちゃん、きっと、これさ、昔から藻琴山を登ってきている人の大切なもの だね」
「ねえ、次のページにはなんて書いてあるのン?」
クミちゃんの興味は、ぼくの好奇心と一致し、そろっと次のページをめくった。
『私が登ったのは昭和41年9月4日のことで、夏休みに帰ってきていた娘と2 人で出かけました。バスに乗れば至ってぞうさのないことで、終点が八合目ぐらいでしょうか、その駐車場の一隅から屈斜路湖が見渡せるのでした。バスは3時間もそこで待っていてくれているので、その間に頂上まで往復するのです。道は悪い瓜先登りで、すでに咲き始めている秋草を分けてゆくのでした。 (この辺り達筆で読めず) ゆっくり歩いて一時間ぐらいでしたろう。
 千メートルの頂上です、灌木に囲まれたあまり広くない平地に、石の祠と「山中源吉師之碑」というのが建てられていました、この人が、藻琴山開発の恩人で あると記憶しております。』
 クミちゃんとぼくは、眼を合わせた。  
「これ、これ、ここに石の祠って書いてあるよう」
「少なくても昭和41年には祠が確かにあったということだよね、これってさ」
「でも、私たちがさっきいた頂上には、なかったよね」
「うん、なかったよね、この山中さんの碑はあったけど」
ぼくたちは小さな驚きの発見をしたかのように、とりあえず大事にその手帳をしまい、クミちゃんのお母さんの待つ登山口、銀嶺水へと春の陽射しを背にうけて急いだ。
 道ばたには、大きなエンレイソウが三方向に大きく白い花弁を広げていた。
 こちらでもウグイスたちは盛んにさえずりあっていた。


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